クック物語(1)

 私は、バンドー神戸青少年科学館の観測室を訪れるたび、いつもクック25cm屈折望遠鏡に畏敬の念を抱きます。その理由は、かつてのイギリスの名門望遠鏡メーカーが製造した、世界的にも希少な望遠鏡であることはもちろんです。しかし、それ以上に、幾多の苦難を乗り越えた偉人が、そこに存在しているように感じるからなのです。

 これから8回にわたって、この望遠鏡がたどった、波乱に満ちた生涯をお伝えします。

 クック望遠鏡が設置された海洋気象台は、1920年(大正9)8月26日、神戸の宇治野山(標高60m)に、日本で唯一の海洋気象台として創設されました。竣工式は、1924年(大正13)4月15日に行われました。

 第一庁舎は建築士渡辺節氏が

 第二庁舎は堀口捨己氏が設計しました。

 職員の規模は、中央気象台を上回るものでした。総工費は約28万円(現在の貨幣価値に換算すると約8億円)、費用は全額神戸・大阪の海運業者が、持ち船のトン数に応じて出資しました。

 1914年(大正3)7月に第一次世界大戦が起こり、海運業は未曾有の好景気に沸きました。造船所は建造ラッシュ、造った船は高価に売れました。船賃や傭船料も高騰し、船さえ持っていれば必ず儲かると言われました。多くの船成金も誕生しました。

 また海難事故も続出し、有名なタイタニック号の海難事故も、1912(明治45)年4月に起こっています。海洋気象台は、海運業者にとって、航海の安全のためにも喉から手が出るほど欲しかった施設でした。

 (創設間もない頃の海洋気象台を描いた絵葉書)

 「暁近く海洋気象台が朝焼けのなかにホンノリ夢のように浮かんでいるのを神戸に入港して来る船の甲板から眺めると、まるで龍宮城へ近づいて行くような心持ちになるそうである。」と当時の新聞は報じています。ドイツのハンブルグ気象台をモデルにした、瀟洒な建物でした。

 (第二庁舎が完成した1922年の海洋気象台)

 1923年(大正12)9月1日、関東大震災が起こりました。また、1929年(昭和4)10月に、世界大恐慌(海運業者も痛手を被ったはずである)が起こりました。

 歴史の大転換期でした。ですから、「海洋気象台開設の話が1年前であっても、1年後であっても実現しなかった」と言われています。

 (設置後間もないクック25cm屈折望遠鏡)

 クック望遠鏡の、神戸での活躍が始まりました。

(参考文献)

兵庫の気象ー空と海を見つめて100年,神戸海洋気象台・財務省印刷局,2001

海洋気象台と神戸コレクション,𩜙村曜著,成山堂書店2010

写真アルバム神戸の150年,山田恭幹,樹林舎,2017

こうべ市制100周年記念,神戸市,1989

(新聞記事は伊達英太郎氏天文蒐集帖より)

中村鏡とクック25cm望遠鏡

2016年3月、1943年製の15cm反射望遠鏡を購入しました。ミラーの裏面には、「Kaname Nakamura maker」のサインがありました。この日が、日本の反射鏡研磨の名人との出会いの日となりました。GFRP反射鏡筒として現代に蘇った夭折の天才の姿を、天体写真等でご紹介します。また、同時代に生きたキラ星のような天文家達を、同時期に製造されたクック25cm望遠鏡の話題と共にお送りします。

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