海洋気象台は、1924年(大正13)4月15日に竣工しました。すぐに、技師の関口鯉吉氏は、一木茂氏と共に太陽観測を始めました。1924年(大正13)4月に「水星の太陽面経過」、1925年(大正14)12月に田口龍雄氏と共に「太陽黒点、白斑及び緬羊斑の運動に就いて」、1926年(大正15)11月に、これも田口氏と共に「気温に及ぼす太陽活動の直接作用の検出」を、海洋気象台の機関誌「海と空」に発表しました。関口氏がクック望遠鏡を活用した期間が4年間。その後、関口氏が中央気象台に転勤にしたので、一木茂氏が太陽黒点の観測を7年間継続して行いました。1929年(昭和4)6月7日、昭和天皇が神戸を行幸し、クック望遠鏡で太陽黒点の観察をされました。この11年間が、クック望遠鏡の最も輝いた時代でした。
一木氏の転勤後、誰も使用しなくなり、クック望遠鏡は海洋気象台のドームに放置されることが多くなりました。1935年(昭和10)から1949年(昭和24)までの、実に15年間です。
(大倉山公園に設置された「いのちと平和の碑」)
阪神大水害、放置、と受難続きのクック望遠鏡に、さらなる試練がやってきました。戦争による爆撃です。
1945年(昭和20)、神戸は5回大規模な空襲を受けました。主に焼夷弾の投下でしたが、神戸港には機雷も投下され、模擬原爆も落とされました。8000人を超える市民、外国人が犠牲になりました。
高台にあり通信設備を備えていた海洋気象台ですから、米軍の攻撃の対象になりました。
1945年(昭和20)3月17日の空襲では、佐野台長心得を含め4名の方々が殉職されました。庁舎・官舎も一部被災しました。6月5日の空襲では、本館(第一庁舎)・機械工場・印刷工場・官舎等が全焼しました。クック望遠鏡が設置されていた別館(第二庁舎)は焼失は免れましたが、焼夷弾がドームに命中、使用不能になりました。
(1945年3月の無差別攻撃で炎上する神戸港と中心街)
(黒煙をあげて炎上する旧居留地)
(省線神戸駅の焼夷弾による車両火災)
(北野異人館街から見た三ノ宮北側の様子)
(廃墟と化した元町商店街)
(焼け野原になった湊川公園付近)
海洋気象台のドーム内で息を潜めていたクック望遠鏡は、戦争からも守られました。
(参考文献)
兵庫の気象ー空と海を見つめて100年,神戸海洋気象台・財務省印刷局,2001
海洋気象台と神戸コレクション,𩜙村曜著,成山堂書店2010
ふたたび太陽を追って,神戸市教育委員会望遠鏡小史編集委員会,神戸新聞出版センター,1984
写真アルバム神戸の150年,山田恭幹,樹林舎,2017
こうべ市制100周年記念,神戸市,1989
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