南洋ロソップ島に使して(2)
8 各班はロソップ島と、その東方幅80 m の水道を隔てた無人島レオールとに別れることになった。荷揚げの翌日から各班は選定した観測地へ荷を運び、天幕を張ってスコールに備え乍ら荷解きの一方、機械の基礎工事に掛かった。京都大学の望遠鏡を据える為、巨大なコンクリートの柱(約1 m 角、高さ3 m 余)2本も2月4,5日頃には出来上がった。コンクリート用の淡水を貯めるのには、春日から借りたケンバス風呂が大に役立った。2月7,8日頃には、機械も殆んど全部据え付けられた。乾燥期というに生憎今年は雨許りで晴夜が少なく、準備の日数は充分ではなかったものの、時日は漸く押詰って遂に14日日食当日となった。
9 観測の方法とか原理とかは余り専門的になるのと、通俗的な説明は新聞紙などにも出たのでここには省く。幸いに、実に天佑とも言うべきか日食当時は天気快晴であった。日食は何年前かに計算された予報の時刻とわずか3 ,4秒の差を以て始まり、次第に蝕まれ遂に2分5秒間の皆既となった。息詰まるような緊張のうちに諸種の観測は果たされた。皆既中の天地は美観と言おうか、凄壮と言おうか。其の神秘的な光景はとても簡単に言い表わす事は出来ない。
尊い2分間は去った。この2分間こそ観測隊のみならず実に世界中の天文学に関心を持つ者のひとしく興味と期待を懸けたものである。この観測の成功を希(こいねが)ってこそわが海軍も積極的の援助をつくしたのである。 天候快晴、観測成功の電報に我国民挙って慶賀したと後に聞いた同行一米人も、こういう学界の出来事に関して直ちに我が事のように同情同感を持ち得る日本の国民性に敬服し且つ羨ましい事であると述懐した。
10 海軍技術研究所及び逓信省の作業班は電波の実験に2月1日から17日迄連続従事し、又水路部の班は地磁気の変化の観測を日食前後数日に亘って実施した。観測の終わった班は荷造りに掛り、日食前日から入港待機していた第6平栄丸に逐次に荷物を運び、遂に2月20日午前8時を期して一行は同船と瑞鳳丸とによってロソップ島を引き揚げ、同日午後トラックに達し、4週間振りに復び春日に移って艦長丹下大佐始め全乗員の熱誠なる歓迎と慶賀とを受けた。荷物は翌日平栄丸を横付けして同艦に移され、次で観測隊は物珍らしいトラック陸上見学や南洋庁の招待に日も足らぬ思いであったが予定の日が来たので春日はトラックを出港し、30度の炎熱の下僅かに涼を納れたも夢、8日目の3月3日には吹雪乱るる横須賀軍港に復還したのであった。
11 この観測行を回想して、筆者は南洋庁殊にトラック支庁の行き届いた尽力と、ロソップ島の島民諸氏の情誼(じょうぎ)とを忘るることが出来ない。南洋庁では一行の宿舎に充てる為、島民の教会堂を徴用して居住の設備を施し、又暗室、発電機室、無線電信機室、賄場、便所等、建物を10棟新築し、水タンクを多数運び警官を駐在せしめ医官を派遣された。又瑞鳳丸は遥々(はるばる)パラオより回航してロソップ、トラック間の交通に任じ氷(天体写真の為必要、パラオより積来る)水及び生糧品の運搬供給に4往復の難航海を敢行された。一方トラックではロソップに野菜を供給した為、一時全島の畑に少しの野菜も残らぬに至ったとも聞いた。
ロソップ島380名の島民は文化こそ低けれ、単純な基督教的信仰に培われ、自治的に訓練された統制あり節度ある尊敬すべき人達であった。観測隊諸士も亦彼らの平和天真なる生活を乱すまいと相戒め、礼を以て彼らに接した。彼らは日曜日には安息日を守る為絶対に労働をしない。婦人は日曜の食事をさえ前日に作って置く程である。準備日数の足りない観測隊に取って日曜だけとはいえ島民を使役されないことは大いに苦痛な場合もあったが、あえて威圧を用いず又彼らの信仰を破らぬようにと、観測隊の諸士自ら汗して幾倍の労働に耐えられた如きは特筆すべきことと思う。 観測隊は記念碑を兼ねたコンクリートの水槽を教会の前に作って、出発の前日夕方ここに島民一同を集め、寄附の挨拶をなし、互に心より別れを惜しみ合ったが、その情景には感動すべきものがあった。かくあらしめたも畢竟(ひっきょう)、彼ら純朴なる島民に備わった徳の故であろう。過去日食の最中には他の未開民族はしばしば叫喚し慟哭したとさえ記録されているのに、ここの島民は一所に集合して静粛に快活に刻々の変化を楽しんで見ていた整然たる有様には筆者もむしろ驚いた。
12 次に読者諸君に向かって甚だ愉快な一事をお伝えせねばならぬ。それは前にも書いた春日の臨時定員としてロソップ島に派遣された掌電信兵6名、機関科9名、合計15名の下士官兵諸氏についてである。同君らは春日班なる呼称を与えられ、2張の天幕を連結してこの内に居住し、それぞれの勤務に服した。機関科は先ず1月24日夕教会前広場で発電機を回して電灯を点じ、島民を驚嘆せしめたのを手始めに、ロソップ及びレオール両島で或は終夜の点灯に、或いは深夜の充電に、仲々多忙であった。
電信員はこれ又ロソップ上陸第一歩以来絶え間ない通信と技術研究所作業の援助に忙しかった。しかも筆者は用務多端にして一々指令するを得なかったにもかかわらず、善く任務を理解して労苦を惜まず観測隊を援助し、一方には規律ある起居をなし学者の団体に伍して堂々海軍軍人たる矜持と見識と示した。又互に和気藹々(あいあい)として常に快活愉快であったこと等、日夕これを見た所の観測隊の学者達をして「流石は春日班だ」と讃えしめたが、之は筆者には大なる喜びであった。筆者は又同氏らを指揮し、観測隊及び島民諸氏と共にロソップ島に於て厳粛に紀元節の遥拝式を行ったことを欣懐とする。ここにその15名の氏名を掲げて御披露する。
一等機関兵曹 柴田十郎、同 本間岩治、二等兵曹 関根時蔵、同 戸井茂十郎、同 澤田武次、三等兵曹 佐藤鉄之助、同 石川準三、同 江本浩、三等機関兵曹 中澤愛、一等機関兵 竹花力太郎、同 芳賀登三雄、同 佐々木勇蔵、同 山上喜久雄、同 内山秀作、二等機関兵 竹股四四雄
13 軍艦及び海軍軍人は平時に於ける任務として従来とても「学術上の研究に対する支援」をなし来たったことは今更言う迄もないが、今回の日食観測行によって一層その好適な例が示されたと思う。けだし今回の企てのごときは、世界の海軍にも類を見ざることと信ずる。
武を以て立つ我等軍人と実生活とすら関係の薄いように見られる日食の観測とは全く縁の遠いものとも考えられる。しかし新しき日本を建設し世界文化に貢献する為海軍の与えた絶大なる援助を思い更に今回のごとき作業の為にこの任務にも服したことを思えば自分は「春日班」諸君と共に海軍軍人たることの喜びを新たにするものである。
14 最後に日食に因みある1つの事を付記してこの稿を終わる。
飛行船に使用される貴重なヘリウムガスは、1868年8月18日、印度に於ける皆既日食で観測した太陽のスペクトルで初めてその存在を発見せられ、当時地球上には無いと考えられたものであるが、その後1881年以来、火山の噴煙に、鉱石の内部に、更に大気の中に、或いは地中から噴出する天然ガス中にも含まれていることが分かったたものである。—-終—-
(旧字体は新字体に、送り仮名は現代的な形に、漢数字は算用数字に直しています。)
(引用)
海行かば第23號,海軍省構内海行かば発行所,昭和9年8月1日
故秋吉利雄氏保存資料
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