ロソップ島民の思出(3)
サーダン=サタン、この舟は非常に美しいので悪魔の名を付した。
タカラ=宝、日本名、大切にする気持。
アニシ=救いの意、教えを広め人々を救うルーベル君自身ロソップ、ピース間を乗り廻るので、この名を付した。
アネアン=思い出すの意、この舟を作るに当り、船大工であった父が生きていたらと思い出したから付けた。
アベイベイ=流木の意、他の舟の様にパンの樹の幹でなく流木を拾って作ったもの、これらにも彼らの単純さが窺はれて面白いと思う。
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この島には日本人は1人もいない。日本語の出来る者も殆どいない。教育の機関としてはルーベル君夫妻が先生である所の寺小屋があるのみである。7才から片仮名、平仮名、算術、唱歌、聖書、裁縫などを教え12才以上の者を推薦してトラックの公学校(本科3年、補助科2年)に送る。現在8名の留学生(?)があった。
木曜の午後は「日曜学校」がある。頼まれて一度話をした。日本の日曜学校の有様を語り、所を離れても、互の祈り、讃美は同じ天の御座に通ずることを語った。勿論通訳付であるが70人ばかりの子供が極めて静粛に傾聴したことは内地の日曜学校にも見られぬ有様で真に嬉しかった。
子供らは殊に無邪気で、お行儀がよいので皆を感心せしめた。観測隊の人が道を通ると必ず路傍に走り出でて「コンニチハ」或は「コンバンハ」と言って礼をする。(大人も真に礼儀正しかった)学者達も鄭重に応酬する。珍しい食物を食べていてもついぞ欲しそうな身振りをするものもなかったばかりか、お菓子などを与えても決して1人では食べず必ず最寄りの子供と分け合って仲睦まじく食べる。よく躾けられたものである。
子供にも大人にも皮膚病が多く又色は随分と黒いが黒人種ではない、気候と風土の影響で黒いので、その証拠には南洋在住の内地人も同じ位の色にはなるし、赤ン坊は皆白いのである。
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準備着々と成って2月14日、待望の皆既日食当日となった。
早朝より空一面一点の雲もなく、正に来島以来隨一の好晴。日食は何年前かに計算された予報の時刻と僅か3,4秒の差を以って始まり。決第に蝕まれ遂に2分5秒間皆既となった。息詰るような緊張のうちに諸種の観測は果たされた。皆既中の天地は美観と言おうか凄壮と言おうか、その神秘的な光景は簡単に言い表すことは出来ない。尊い2分間よ、観測成功の電報にわが国民こぞって慶賀したと後に聞いた。こういう学界の出來事に関して直ちに我が事のように同情同感を持ち得る日本の国民性に敬服しかつ羨むとは同行米国人の述懐であった。
島民には事前に、日食なるものの様子を語り、少しも驚き怖れることはないと説明して、人間には今から何百年後の日食でも正確に予報する能力を与えられていること、造物主の智恵は更に更に正確なことを話した。私は皆既の前後自分の器械のことで隣のレオール島へ往復したが、島民は広場に集まり静粛に座して、教へられた燻し硝子をかざして興味深げに見物していた。そして私が通るや晴々とした面持ちで微笑を以って会釈をした。
過去の日食遠征に於いて日食始まるや、屢々迷信深き土民は恐怖の余り呼喚慟哭して騒いだということを回想して、彼らの統制節度には雲泥の差のあることを強く感じた。
日食が済んだと思うと空一面の雲が出、午後は大夕立となった。
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観測隊と島民とは非常に親しく晴れやかに交わった。島民はよく笑う。天真爛漫たる原始民には追従笑いやせせら笑いなどはない。控え目に笑うことや微苦笑とかいうややこしいことを知らない。彼らの哄然たる笑声を聞いては顔をしかめてはおられない、我々も笑いに共鳴すること屢々であつた。観測隊には各班共教養ある青年学徒が多かつたので島民は先ずその人達に懐いてしまった。
彼らは我々からコンパニー(親友)と呼ばれる知遇に感激したと言おうか、人なつこく近付いてその純情を披歴する、学者諸士もいささかも軽侮の振る舞いなく深き思いやりを以って懇切に交わった。
或る時或る班の人が緑色の大きな蜥蜴(トカゲ)を見つけ、土産に絶好の良い標本と島民に頼んで捕えて貰って空瓶に入れアルコールを注ぎ込んだ。島民は憐れみに充ちた深刻な表情をして見ていたが、数回もがいた揚句愈々蜥蜴が最後の息を引き取った瞬間、異口同音に「アーメン」と唱へたのには学者達は一同ハッとした。 ここに於いて1人は説明してこの蜥蜴は決して我々が無益に命を絶って神の許に送ったのではない、動物学の研究の為。その亡骸を保存するのであって、人類のため犠牲となって昇天した最期である旨を懇々として話した。虫一疋殺してさえ、島民の感情を尊重して、こう迄も心を用いた如きは嬉しくも麗しいことであった。
日食が済み、設備を撤し荷物を汽船に積み我らの去る日は近付いた。観測隊は記念碑を兼ねたコンクリートの3 t 入りの水タンクを教会の入口に作って島民の為に残すこととした。出発の前日夕闇頃その前に観測隊及び島民一同集まり寄贈の挨拶をし、双方離別の言葉を交換した。
終わりに子供達は日本語でお別れの歌「神共にいまして」を合唱し「また会う日まで」と繰り返し繰り返し歌った。誰かこの世に於いて再会を期し得よう。哀愁深く一同の胸を打った。
翠朝島民一同海岸に見送り、観測隊は何回にも分かれてボートに乗り汽船に移った。最後迄唯独り残った自分は宿舎にあてた教会堂を清掃し、再び神の聖堂として、神と島民とに返す為、祭壇の位置に進んでルーベル君とそこに祈りを捧げ、堅く握手をして別れた。
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自分はロソップに来て創世記の記事のいかにも活きていることを思った。エデンの園に智恵の入ったことが人類堕落の初めであった。省みて我らの生活、態度、言行が彼らに無益の智恵、よこしまな智恵をつけ、心清き民をスポイルすることはなかったか。文明人の享楽に憧れしむるようなことにはならなかったか。残せしいくばくかの器物や木材に醜くき争いを起こすようなことはなかったか。彼らの単純なる信仰に疑いの雲の掛かるような事はなかったか。これに引きかえ我々が島民から受けた影響をいうならば、我らは却って無智なる島民の純情と信仰とに学ぶ所甚だ多く、おのずから尊敬を払わされたことを認めざるを得ない。
智恵と共に罪の加わることは免かれ難いこととしても、彼らが4週間に亘って接触した日本人は、信仰は別とするも、皆教養ある人々であった、彼らの貴い幼い信仰を乱すまいと苦心努力されたことはせめても彼らに幸せであったと思う。これというも敬虔な基督教信仰に培われ、自活的に訓練された彼ら島民におのずから備わった徳の反映である。彼らは知らずして神の栄光を顕わしたのである。
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ルーベル君というは当年27歳、父の代からの島民伝道師、トラック公学校を卒(お)え、東京霊南坂教会の先代小崎牧師の許に3ヶ年の修業を積んだ秀才、島民の霊性を指導し教育を担当する偉人である。その母、夫人皆円満温厚にしてルーベル君を扶(たす)けている立派な信者である。ロソップの教会はトラックに駐在の山口詳吉牧師の管轄に属する。(同牧師は目下病気療養のため東京に帰省され、傍ら島語讃美歌改訳改版中とのこと)わが委任統治南洋に於ける伝道は大正7年小崎弘道氏を中心に組織された南洋伝道団によって開始せられ、政府は毎年20000円の補助金を支出してこれを援助している。目下在住牧師4家族、島民伝道師75、島民信徒15000を数ふる。この外にスペイン宣教師の働く天主教がある。
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文化果たして幸福か、自然のままなること果たして不幸か、島民は信仰に於いて絶対の真理を掴んでいる。科学者は科学的方法を以って真理を目標に邁進する、しかしいずれを軽しめてもならない。文化といい科学という、これ畢意(ひっきょう)神の経綸によって今日の栄を致したのである。宗教家は科学者の探究を笑ってはならぬ、宗教は科学を敵視してはならぬ。科学本来の目的は真摯である。
唯、問題は神によって立つか、己れの智恵に立つかである。神に栄光を帰しつつ、神と共に働くのは自覚と謙遜とを以って天職にいそしむ人を神は求め給う。
常夏の島に過ごした冬の「暑さ」も旬日の夢とさめて、帰り来たった横須賀は大吹雪であつた。今又内地は盛夏に入り、遙かにロソップを想う。その緑蔭、その白砂、子供らの喜戯する様、数会の鐘、聖歌の声。 ―7月11日夜―
(旧字体は新字体に、送り仮名は現代的な形に、漢数字は算用数字に直しています。)
(引用)
基督教教育第三年八月號,通巻27號,1934
故秋吉利雄氏保存資料
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