1939年(昭和14)の火星スケッチ(2)

 上のハガキは、山本一清氏から伊達英太郎氏に送られたものです。日付は、1938年(昭和13)10月27日です。東亞天文協会遊星面課課長に任命する旨が書かれています。恐らく、次年度を待たず、すぐに木辺氏から伊達氏に課長が変わったのでしょう。

 ところで、今回ご紹介するのは、樋上敏一氏(1921~?)による火星スケッチです。樋上氏は、当時京都一中(1870年に創立した日本最古の旧制中学校。現京都府立洛北高等学校・附属中学校)の学生でした。花山天文台の柴田淑次氏の指導を受け、1年生の頃より太陽黒点の観測に精進したそうです。後年、彗星の軌道計算に精通され、本田彗星の発見報告にも尽力されました。ホンダ・ベルナスコニ彗星を、1948年6月6日朝独立発見しましたが、観測が不十分との理由から報告しなかったことでも知られています。

 今回の火星スケッチから、樋上氏の観測に対する妥協の無さが伝わってきます。観測用紙の表紙下に、「京都府立京都第一中学校天文気象同好会遊星面課」とあるのにご注目下さい。

(参考文献)

日本アマチュア天文史,日本アマチュア天文史編纂会,恒星社厚生閣,1987

(資料は全て伊達英太郎氏保管)

中村鏡とクック25cm望遠鏡

2016年3月、1943年製の15cm反射望遠鏡を購入しました。ミラーの裏面には、「Kaname Nakamura maker」のサインがありました。この日が、日本の反射鏡研磨の名人との出会いの日となりました。GFRP反射鏡筒として現代に蘇った夭折の天才の姿を、天体写真等でご紹介します。また、同時代に生きたキラ星のような天文家達を、同時期に製造されたクック25cm望遠鏡の話題と共にお送りします。

2コメント

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  • double_cluster

    2021.06.06 07:11

    コメントをありがとうございます。火星スケッチの個人差については、当時から議論があったようです。「京星」(1935年7月号、京星会発行)に、「個人差に就きまして」と題する前田治久氏の文章がありました。その中で前田氏は、口径、シーイング、観測者個人の特性(目の分解能の差、淡いものを見分ける能力・細いものを見分ける能力・明暗のコントラストを認識する能力など)が違うので、どれが正確・不正確は言えないという結論を下していました。瞬時も止まらない気流の中で、粘り強く火星スケッチをするのは、私には無理だなあと、前回の大接近で思いました。
  • manami.sh

    2021.06.05 11:26

    遊星面課長任命の通知、史料として貴重ですねぇ。 数多くの方たちのスケッチを見て、見た通りに描くことが如何に難しいか。 見えたものを描いているのには変わりがないのですが。人それぞれ。 スケッチの技法にも流行りすたりがあるように思います。 ボイジャーが木星の高解像度の写真を送ってくる前と後でもスケッチの描 き方が変わっていますし。 火星にしても運河を描くのかどうかも、人によって違いますし。 見た感じ、樋上氏のスケッチは線が太く見えます。 樋上氏のLTPもすごいですねぇ。ミドルハースト・カタログにはアリスタルコ ス・クレーター付近が (もともと色が着いているので、着色して見えるのが 通常です)、色が着いてみえたとかの報告も多いです。通常の状態が、どうな のかを調べておくのも大切だと思います。 今回も貴重な資料を掲載していただき、ありがとうございます。