2022.08.03 06:541939年(昭和14)4月の太陽黒点写真 この月は、天候があまり良くなかったようです。しかし、4月後半には、肉眼で見える黒点が多数出現しました。 伊達資料の1939年(昭和14)の太陽黒点写真は、これで終わりです。(引用)太陽課,木辺成麿,天界,1939,6(218):250-253,東亞天文協会(太陽黒点写真乾板は、伊達英太郎氏撮影。)
2022.08.02 01:021939年(昭和14)3月の太陽黒点写真 この月の太陽活動は、かなり平穏だったようです。(引用)観測手引き,伊達英太郎,天界,1939,4(216):191-192,東亞天文協会太陽課,木辺成麿,天界,1939,5(217):217-219,東亞天文協会(太陽黒点写真乾板は、伊達英太郎氏撮影。)
2022.08.01 05:521939年(昭和14)2月の太陽黒点写真(引用)観測手引き,伊達英太郎,天界,1939,2(214):128,東亞天文協会太陽課,木辺成麿,天界,1939,4(216):186-188,東亞天文協会(太陽黒点写真乾板は、伊達英太郎氏撮影。)
2022.07.30 21:401939年(昭和14)1月の太陽黒点写真 1938年(昭和13)12月の太陽黒点写真は、ありませんでした。 「天界」(第214號)には、伊達英太郎氏の「観測手引き(4) 太陽観測上の注意」が掲載されました。
2021.06.26 05:441939年(昭和14)の火星スケッチ(7) 今回は、木辺成麿氏の奥様の木辺村子氏の火星スケッチをご紹介します。木辺村子氏は、ご主人の木辺成麿氏と共に、31cm反射望遠鏡を使って写真撮影も行っていました。山本一清氏が、英子夫人を積極的に観測に携わらせていたことが、木辺氏にも影響を与えたのかもしれません。 英子夫人は、山本一清氏のアメリカ留学にも帯同し、日食観測(1923年・1929年)にも加わっています。下の新聞記事は、山本英子氏が新聞社の所有する飛行機に搭乗し、1936年(昭和11)の日食観測スケッチをすることを告げたものです。
2021.06.20 06:481939年(昭和14)の火星スケッチ(6) 今回の火星スケッチは、都留繁雄氏(熊本)です。3.2cm屈折望遠鏡(50倍)で、1937年12月から1943年3月までの5年間、太陽黒点の報告をしたことが記録に残っている方です。
2021.06.19 01:241939年(昭和14)の火星スケッチ(5) 今回は、山根平三氏の火星スケッチをご紹介します。山根氏は、東亞天文協会東京支部の会員でした。また、青山天文同好会(前身は大久保天文クラブ)の中心メンバーでもありました。
2021.06.12 07:121939年(昭和14)の火星スケッチ(3) 今回は、西森菊雄氏の火星スケッチです。西森氏は、東亞天文協会大阪南支部の責任を、伊達氏から引き継いだ方です。西森氏は、東亞天文協会の文庫部長もしておられたようです。
2021.06.05 08:301939年(昭和14)の火星スケッチ(2) 上のハガキは、山本一清氏から伊達英太郎氏に送られたものです。日付は、1938年(昭和13)10月27日です。東亞天文協会遊星面課課長に任命する旨が書かれています。恐らく、次年度を待たず、すぐに木辺氏から伊達氏に課長が変わったのでしょう。 ところで、今回ご紹介するのは、樋上敏一氏(1921~?)による火星スケッチです。樋上氏は、当時京都一中(1870年に創立した日本最古の旧制中学校。現京都府立洛北高等学校・附属中学校)の学生でした。花山天文台の柴田淑次氏の指導を受け、1年生の頃より太陽黒点の観測に精進したそうです。後年、彗星の軌道計算に精通され、本田彗星の発見報告にも尽力されました。ホンダ・ベルナスコニ彗星を、1948年6月6日朝独立発見しましたが、観...
2021.05.23 01:241939年(昭和14)の火星スケッチ(1) 1937年(昭和12)に始まった日中戦争が続く中、1939年には、第二次世界大戦が始まりました。いよいよ時代は困難さを増していきます。 東亞天文協会遊星面課火星観測陣にとって、1935年に共同観測を開始してから、初めて迎える火星大接近でした。この時の接近は、最接近が7月28日(衝は7月23日)、距離5799万Km、視直径24.1秒でした。しかし、火星の赤緯が-26°あまり、南天低いやぎ座の中にあったので、シーイングの点では不利でした。 共同観測の参加者は27名、若い観測者も進出し、戦時中でしたが盛況でした。 1回目は、坂上務氏です。