1941年(昭和16)の月・惑星写真(17)

 1941年(昭和16)10月28日に撮影された火星です。乾板A30。撮影時刻は23:50~55、露出2秒、フィルターNo.3、クオリティーは可〜良です。乾板はOriental.Pan-chro使用 。

 木辺氏の写真乾板はこれが最後になります。

 木辺氏がフィルターを使った撮影に慣れたのでしょうか、火星表面の描写が鮮やかです。

 連載最後に当たって、当時の撮影にまつわる、木辺氏の文章をご紹介したいと思います。

 「そしてNo.100号目(木辺氏が製作した100枚目の反射鏡のこと)にいよいよ12インチ鏡(実直径は318mmあった)を作って、翌年からこの鏡面で遊星面や微光変光星の観測に精を出した。そして火星や木星面の写真を撮影したが、感度の低い当時の乾板(当時フィルムは亜流だった)を利用して、ずいぶん苦心したものである。」(星の手帖VOL.22より)

(参考文献)

星の手帖VOL.22,清水勝,河出書房新社,1983,p.15

(写真乾板は伊達英太郎氏保管)

中村鏡とクック25cm望遠鏡

2016年3月、1943年製の15cm反射望遠鏡を購入しました。ミラーの裏面には、「Kaname Nakamura maker」のサインがありました。この日が、日本の反射鏡研磨の名人との出会いの日となりました。GFRP反射鏡筒として現代に蘇った夭折の天才の姿を、天体写真等でご紹介します。また、同時代に生きたキラ星のような天文家達を、同時期に製造されたクック25cm望遠鏡の話題と共にお送りします。

2コメント

  • 1000 / 1000

  • double_cluster

    2021.08.23 07:26

    コメントをいただき感謝しています。今は木辺氏の17回の掲載を終え、若干ホッとしています。現代のように、その場で画像をチェックすることができない環境で、木辺氏は根気強く撮影を重ねられたことがよく分かりました。お目にかけている資料は、戦争を乗り越えてきた貴重なものです。伊達氏が生家の南炭屋町(現在の西心斎橋2丁目)に戦時中も留まっておられたら、大阪大空襲で失われていたと思います。伊達氏は20歳の時に、医師の奨めで雲雀ヶ丘に転地療養を兼ねて居を移されています。現在もコロナで先が見えませんが、破滅的な戦争の最中にも、星への思いを保ち続けた方々を思い、頑張らねばと思います。次回からは、伊達英太郎氏の「無メッキ反射鏡による太陽写真」を掲載していこうと思っています。今後とも、どうぞよろしくお願いします。
  • manami.sh

    2021.08.23 05:08

    連続17回掲載、毎日、楽しみに見させていただいておりました。木辺氏は火星、土星は1コマ1コマずらしながら撮影されていますが撮影は大変だったと思います。(露出は、どうしていたんでしょう。団扇?とか) それを、今、見せていただけるのは、もっとありがたいことです。当時の月面・惑星面観測の中心がBAAだったことは、明らかな事で、19世紀からの観測の積み重ねをもっています。日本においては、木辺氏、伊達氏が惑星の観測ネットワークを整備しましたが、それを、ここで、見られるのも、すごいことだと思っています。 コロナウイルスのニュースで、患者数の増減に一喜一憂しています。今後、どうなっていくのか、先がわからない状況ですし、いろいろと不自由な環境になってきました。でも、気にかかる事への探究心は持ち続けたいと思っています。引き続き、よろしくお願いします。