生駒山天文台(2)

 「天界」(1936年12月号)の扉ページに掲載された、トムキンス60cm反射望遠鏡です。人物は山本一清氏。説明には誤って80mmと記載されています。

 トムキンス鏡に関する木辺氏の批評です。(「天界」1937年1月号より)

 「天界」1936年11月号に掲載されたトムキンス鏡に関するニュースです。(下は草場星図に関するニュースです。)

 生駒山天文台に関する歴史を整理すると、

1936年10月 トムキンス60cm反射望遠鏡、花山天文台に到着(山本一清氏輸入)

1936年11月 生駒山太陽観測所工事着工

1941年 7月 生駒山太陽観測所設立(生駒山天文台)

1951年 7月 生駒山天文博物館完成(朝日新聞社・東亞天文協会経営)

1958年 4月 花山天文台および生駒山太陽観測所を京大理学部附属天文台として官制化

1968年 9月 生駒山天文博物館閉館

1972年 3月 生駒山太陽観測所閉鎖

 「天界」(1937年3月号)のニュースです。

 1936年(昭和11)8月8日〜15日まで、生駒山天文台敷地近傍で開催された指導者キャンプです。8月12日〜15日にかけては、一般に公開されました。主催は東亞天文協会大阪支部、後援は大阪毎日新聞社でした。

 花火や踊り、レコード鑑賞など、一大イベントであったことが分かります。

 生駒山天文台建設に向けて、東亞天文協会では、大きな盛り上がりを見せていたのでしょう。

 しかし、生駒山天文台工事着工から設立まで約5年かかっているのは、山本一清氏の京大退官(1938年)が影響していたのでしょうか。

(参考文献)

 天界第187號,東亞天文協会,1936年11月

 天界第188號,東亞天文協会,1936年12月

 天界第188號,東亞天文協会,1937年 1月

(資料は伊達英太郎氏天文蒐集帖より)



中村鏡とクック25cm望遠鏡

2016年3月、1943年製の15cm反射望遠鏡を購入しました。ミラーの裏面には、「Kaname Nakamura maker」のサインがありました。この日が、日本の反射鏡研磨の名人との出会いの日となりました。GFRP反射鏡筒として現代に蘇った夭折の天才の姿を、天体写真等でご紹介します。また、同時代に生きたキラ星のような天文家達を、同時期に製造されたクック25cm望遠鏡の話題と共にお送りします。

3コメント

  • 1000 / 1000

  • double_cluster

    2022.07.04 12:12

    manami.sh様 暑中お見舞い申し上げます。詳細なコメントをありがとうございます。ところで、「天界」(1929年9月号)に「倉敷天文台」(水野千里氏)という文章がありました。その中で山本一清氏が、「天文同好会支部所在地数十箇所に、民衆的天文台を設けたい。理想的天文台はその設置費に百余万円要するが、小天文台ならば二万円でも、一万円でも或いは数千円でも設けられるから、地方有志者の篤志によって是非設立したいものである。望遠鏡も屈折の方は高価であるが、反射の方ならば安価で且つ年々相当のものが一つや二つは売り物に出るから、それを求めたならば割安に出来上がる(以下略)」と 述べています。山本一清氏が購入したカルバー46cmも、倉敷天文台のカルバー32cmも、中古で整備が大変であったことを中村要氏が述べていました。とにかく民間天文台を増やしたい。トムキンスもそうですが、赤道儀等の性能にはある程度目を瞑ってという、山本一清氏の考えがあったのかもしれませんね。
  • manami.sh

    2022.07.03 15:14

    @manami.shトムキンスについては、思い当たる人物がいましたので、調べてみました。 Herbert Gerard Tomkins (1869-1934)は、BAA に所属し、月面の光条について研究をした方です。 24インチ鏡を自身で研磨し、反射望遠鏡を製作して月面の光条を写真に撮っています。 H.G.Tomkinsについては、王立天文学会月報, 第95巻, 第4号, 1935年2月, pp. 332–333 Monthly Notices of the Royal Astronomical Society, Volume 95, Issue 4, February 1935, Pages 332–333, に経歴が記されています。リンクを貼れなくて、申し訳ありません。 そこに、この望遠鏡が京都大学にあることがしっかり記されています。(書かれたのは1935年です) Tomkinsが住んでいたイングランドのエセックス州 Dedham は、緯度が約52度です。 どういう経路で日本に来たのかもわかればいいのですが。 でも、トムキンスについては、解決です。
  • manami.sh

    2022.07.03 11:57

    暑くなってきましたねぇ。如何、お過ごしでしょうか。 生駒山天文協会員には、伊達英太郎氏、青木章氏、西村末雄氏、小沢喜一氏の名前が見えます。 青木氏は、天文研究会(大阪市立電気科学館内)の会誌「銀河」を印刷していた印刷所(東光社)の 若旦那ことが分かりました。戦後は、どうされたのか? 生駒山天文台の60cm反射望遠鏡については、西村繁次郎「雑録60糎反射望遠鏡の設置」『天文教室(14)(1)』1950生駒山天文協会が示唆に富んでいます。 改修前の望遠鏡の仕様を、以下に抜き出しておきます。 「日本で最大の反射望遠鏡といえば、生駒山天文台に有るものが第一番だと人によく知られてはいるが、その望遠鏡が完全に据付られていなかつたのは非常に残念がられていたものである。この望遠鏡の製造者も製造年月も不詳である。反射鏡は凹面鏡に経61糎焦点距離383糎、凸面鏡は二個、平面鏡(斜鏡)一個であって、カセ・ニユトン式である。それ等の鏡面は英トムキンス作と傳えられている。 鏡筒は木骨六角フレームであるから軽量ではあるけれども柔弱である。鏡受け部は非常な重量を持った鋳物で作られ、この所に赤緯の廻轉軸がある。~中略~赤道儀はいわゆる英國式フオーク型である~中略~望遠鏡は元英國で使われていたので架台のベースと極軸との傾きは約52度である(これは兆度グリニチ天文台の緯度附近である)~中略~総評してこの望遠鏡はアマチユア自用機なのである。望遠鏡全体の重量は約350貫と想像される。以上の様に望遠鏡として不足品もあり、使用上の不便も有るのでこの使用は一寸厄介なものであることがわかる。加えてドームなり類似観測室も必要であるし、僅少の費用では据付け使用の計画が成立ないことがわかる。」 西村繁次郎氏は、上田教授から修理の修理見積の相談を受け、その後、近畿日本鉄道会社から望遠鏡を収める建物と望遠鏡の修理を発注されることになり限られた費用で使えるようにした顛末等を記しています。なお、脱稿は昭和24年9月8日と記されています。 トムキンス鏡については、その出自からして謎ですか、60cmという大口径なので、なんらかの情報がどこかにあるように思うのですが..............。 次回の記事も楽しみにしております。