星を知り始めてから1

 中村要氏は晩年、目の不調をきたしたと言われています。極度の乱視、失明の危険性等様々なことが言われています。晩年(亡くなったのは1932年(昭和7)9月24日)の中村要氏の姿や、当時の花山天文台での観測・観望の様子をお伝えするために、高井宏典氏の「星を知り始めてから」を2回に亘って掲載したいと思います。

「星を知り始めてから」

                                    京都 高井博典

 小学5,6年の頃、学校の帰途吉田(京都)帝国大学の横を2人話しつつ家路を急いでいた。山本進君は小柄な身体に利発そうな目を輝かしながら言った。「天体望遠鏡の接眼レンズの後ろに白い紙をあて、筒を太陽に向けると紙の上に太陽の像がうつり、その中に大小の黒点が見えます。その黒点を毎日記録しておくのです。随分興味深いものですよ。僕は毎日5cmの望遠鏡で観測しています。」山本君のお父さんは有名な天文学者で、山本一清とおっしゃる方だとは前から聞いていた。この日のことが頭にこびりついて、知らず知らず私は天文の方に興味を持つようになっていった。

 またその頃、ボール紙で長さ一尺(約30cm)ばかりの四角い筒を作り、おじい様から老眼レンズ2枚を頂戴して不恰好な望遠鏡を作り、景色が倒立し、その上色が付くのを我慢しつつもて遊んでいた。ある日、今は亡き父に買って貰った大正14年2月号の子供の科学の中に、古川龍城氏の望遠鏡の作り方という記事を見、一日も早く天体望遠鏡を手製し、プラトー・コペルニクスなどという月の山、兎のように見える海、地球の山などには無いと言われる輝かしい光条等を見たいものだと思った。でもまだ子供の私には何ともできなかった。

 昭和4年(1929)10月頃である。ある日、一友人が自分の父の名刺を持って行くと見せてくれると言うので(その父は富山県議員であるとか)それを信じ、同好の者4人で月なく降るような星の光を浴びつつ、憧れの花山天文台道路を登って行った。天文台の規則も何も知らなかったので、厚かましくも天文台本館に入り、ギシギシときしむ階段を上ってドームの中に入った。中は真っ暗、何もわからない。目が暗さに慣れてくると、誰かが赤い懐中電灯で手元を照らしつつ、大屈折望遠鏡を覗いておられる。望遠鏡の向いているドームの縦に切れている窓からは、チカチカと星がまたたいている。

 観測に専心されているその方は、我々の入ってきたのをご存知なさそうである。恐る恐る「もしもし」とお呼びかけすると、ちょっと振り返られた。お邪魔した趣を申し上げると一寸当惑したような顔つきをなさったが、その学生らしい方は、ご親切に知人という名目で中村要氏宛の名刺(断り書き)を書かれ机上に置かれて後、大望遠鏡で二重星、星団等5,6個の天体をお見せ下さった。望遠鏡の太い鉄の柱には30cm屈折望遠鏡と貼り紙してある。あの大きい丸屋根が一人でハンドルを回すことにより動き、大望遠鏡の柱が地下十数尺(3m以上)まで通っていること、一本の綱を引くことにより、大望遠鏡が一人の力で動くこと、幾時間連続観測しても星を逃さない時計装置、天体の位置により高い梯子を登り或いは床に仰向けになって望遠鏡を覗くこと等を見聞して、皆はただ驚いた。間もなくご厚意を謝し、本館を出た。天文台構内の外れの辺に、右側に黒い大砲のような大きい鼠色の筒が横たわっている。友達の一人がつかつかと垣を越えて入って行った。「これこれ」と後ろの宿舎の方から咎められた。後で知ったことであるが、これは山本博士の46cm反射赤道儀であった。天文台の話、望遠鏡の話、星の話などをしつつ山路を下った。昴が右に、左に、前に、後ろに、道の曲がりにより眺められた。ちょっと箱根で見る富士山のように。ケプラー道、ニュートン凹路、ブルノー点等の標柱が見られた。

 後、また友人3人と花山へ登った。この時は前と違う方が応対してくださって、大望遠鏡は今観測中ですからとおっしゃって、露台に出て6インチ半反射経緯台で二重星、亜鈴星雲、環状星雲、いて座付近の散開星団等を見せていただいた。色なしの美しい反射鏡の像、特に二重星の美に心を打たれた。しばらくしてお別れし、その方は部屋へ入られたが、よく考えるとその方のお顔が書物に出ていた中村要氏のお顔に似ておられたので、再びお部屋へお尋ねして失礼と思いつつも「もしや中村さんではいらっしゃいませんか」とお尋ねすると、「私は中村です」と微笑しながら答えられた。中村さんの第一印象は、素人の質問でも快くお答え下さり、ご親切な感じの良い朗らかな方だということであった。またその頃、1月末エロス星の接近との事なので、大阪朝日新聞社催しのエロス観望会に加わりたく、吉田帝国大学天文台に行った。あいにくひどい雲で、時折雲間より覗く月、木星を山本博士に33cm反射赤道儀で見せていただいたが、午後12時過ぎてもエロス星はまだ雲のため見えないとの事なので、まだ残っている人も多かったが半ば失望しつつ帰途に着いた。」

(伊達英太郎氏「THE Milky Way」第6号 1934年(昭和9)12月10日発行より)

中村鏡とクック25cm望遠鏡

2016年3月、1943年製の15cm反射望遠鏡を購入しました。ミラーの裏面には、「Kaname Nakamura maker」のサインがありました。この日が、日本の反射鏡研磨の名人との出会いの日となりました。GFRP反射鏡筒として現代に蘇った夭折の天才の姿を、天体写真等でご紹介します。また、同時代に生きたキラ星のような天文家達を、同時期に製造されたクック25cm望遠鏡の話題と共にお送りします。

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