2022.07.09 08:39倉敷天文台100周年(2) 倉敷天文台のカルバー32cm反射鏡に関する中村要氏の文章を、詳しくご紹介します。「天文同好会倉敷天文台32cm鏡 中村要 この鏡面は口径315mm、焦点距離249cmあってG.Calver108というサインがあり、ガラス材は明らかにCast disk(鋳込み円盤)で厚さは50mmある。 この反射鏡が京都に着いてから二回にわたって地下室の定温の下で鏡面検査を行った。 筆者はこれ程整形の完全な鏡は他に知らない。全く平坦な何一つ欠点のない鏡面である。鏡面で見える特長は明らかに故意に鏡の端が負修正がとってあって、収差をグラフにすれば、極めて平坦である。少なくとも製造者の驚くべき技術の現れである。 筆者がこの鏡面を見たのは15號を終わってからであるが、16號か...
2022.04.16 08:08海外の天文書籍(1932年) 1932年(昭和7)9月頃、伊達英太郎氏が、海外の天文書籍について丸善?に尋ねたことに対する返信です。担当者(菊池喜久雄氏?)は英語が堪能で、天文にも関心があったようです。
2022.04.08 12:14伊達資料の精査 manami.sh様のコメントや天文古玩様のご紹介のように、故伊達英太郎氏が遺された資料は、戦前の日本アマチュア天文史を語る上で、たいへん貴重なものです。 そこで、改めて伊達資料を精査し、時代を追ってご紹介していきたいと思います。 伊達氏の天文蒐集帖I ,IIは失われています。Ⅲには、1932年(昭和7)9月〜1934年(昭和9)2月までの資料が残されています。 伊達英太郎氏天文蒐集帖Ⅲの最初にあったのが、中村要氏逝去(1932.9.24)の新聞記事でした。記事の内容から、昔は故人の尊厳という意識がなかったことが窺えます。
2022.02.26 07:14伊達英太郎氏(3)「火星観測の想い出 村山定男伊達英太郎先生のこと 伊達さんは大阪の履き物で著名なてんぐ履物舗という老舗のご長男で、お住まいにも身なりにも豪商の風格が漂っていたが、さぞかし厳しく育てられて成人されたのであろう。小柄なほっそりした方で、結核を患われながら熱心に星を見続けられた。「医者に止められているのに観測をした罰でまた少し発熱しています・・・」などというお便りを再々いただいては心配したものである。 私が直接お目にかかったのは、たまたま私が属していた教室の戦時研究で温泉水から希元素を採取するため、疎開もかねて兵庫県の有馬温泉に滞在するようになった頃であった。 伊達さんは阪急電鉄の宝塚の少し手前にある雲雀ヶ丘の別邸に住んでおられ、その庭前に当時我々の憧れの的...
2022.02.11 08:09草場 修氏(1) 長い間心に引っかかっていた、草場修氏のことを取り上げたいと思います。内容を膨らませてから掲載したいと思っていましたが、天文古玩さんがご自身のブログに、草場修氏についての詳細をお書きになっていますので、そちらをご覧いただくのが最善だと思い今回ご紹介することにしました。 草場修氏(1898?-1948)は、大阪で昼間は日雇い労働、そして仕事を終えると図書館に通い、5年かけて独力で星図を完成させた方です。その業績を山本一清氏が認め、花山天文台に招き入れました。上の写真は、1936年(昭和11)、満願寺・最明寺滝ハイキングで撮られた写真です。左端が草場修氏、右から2人目が伊達英太郎氏です。
2020.05.02 08:09反射鏡とハイゲンス接眼レンズ 前回に引き続き、天文研究会・天文同好会大阪南支部(伊達英太郎氏主催)の会報「THE MILKY WAY(1)」(1932年[昭和7]4月20日発行)に掲載された、中村要氏の「反射鏡とハイゲン接眼レンズ」をご紹介します。 オルソスコピック接眼レンズが高価なため、ハイゲンスやミッテンズエーハイゲン、ラムスデン等の旧式なレンズ構成の接眼レンズが主流だった時代の、反射鏡製作者の苦悩がよく分かる文章だと思います。 これも、中村要氏の最晩年の貴重な文章です。「反射鏡とハイゲンス接眼レンズ」 &nb...
2020.02.02 06:07中村要氏の観測帳 中村要氏が亡くなったのは、1932年(昭和7)9月24日でした。中村氏は、亡くなる直前まで、「天界」(天文同好会会誌)に、毎号「観測帳」を連載していました。 「天界」1932年1月号から、連載最後になる9月号までを振り返ります。毎号の「観測帳」には、注目すべき天文現象が挙げられています。そして、「観測帳」の最後には、中村氏の近況が書かれています。足跡を辿ってみたいと思います。(1月号) お断り 編集者の都合で12月号に出るはずのこのページが1号遅れました。編集者の方でも、今後は毎号出して下さるはずであり、筆者も段々面白い材料を提供したいと思います。(2月号) 光学研究室より 去る10月(1931年10月)完成した大研磨機は、12月6日に初仕事をした。...
2019.03.09 06:40憧れの花山を訪う 「今日こそは、本会へ入会以来、憧れていた花山へ同好者諸兄と飛んでいく日である。前もって中村氏に参観について御依頼してその承諾も得てあった。また殊に僕にとっては、星を知ってより数年来の宿望であったところの、望遠鏡を手にすることのできる日だったので、前夜などは、なかなか嬉しさのあまり、よく眠れなかったくらいである。 午前11時天満橋集合、一行6人の燃ゆる思いを乗せて、電車はひた走りに走る。各々携えた材料を中に、車中ひとしきり天文談が賑わう。いつの間にか三条着、京津電車に乗り換え蹴上(けあげ)で下車、伊達兄の先導で一路花山山頂へ。 東海道筋を約5町(500~600m)東行、電車線路を踏み切ると、いよいよ花山道路に入る。道は歩一歩、下界を離れ、迂邉曲折、静寂...
2019.02.24 08:09花山(かさん)だより 以前もご紹介した佐伯(旧姓:渡邊)恒夫氏ですが、今回は、佐伯氏から伊達英太郎氏に送られた観測ハガキをご紹介します。 この当時、佐伯氏は京都大学花山天文台の台員でした。連日の好シーイングに喜びの悲鳴をあげながら、連日火星スケッチを続けられたことが綴られています。クック30cm屈折望遠鏡の性能の高さに加え、佐伯氏の優れた眼力により、驚くほど詳細なスケッチが描かれています。 一番上のハガキが、1937年(昭和12)6月2日・3日、二番目が5月11日・12日、最後が4月12日の観測記録です。(ハガキは、伊達英太郎氏保管資料より。)
2019.01.06 07:59乾板(かんぱん)写真 伊達英太郎氏(東亜天文協会遊星面課)のもとには、多数の遊星(惑星)面スケッチが送付されてきていました。その中には、手札判(8cm×10.5cm)の写真乾板(かんぱん)もあります。写真乾板は、いずれも木辺慈麿氏と奥様の村子氏が、1941年(昭和16)10月に撮影されたものです。 写真乾板は1890年代から天文学に用いられ始めました。1995年までには、米・コダック社が研究用の大型ガラス乾板の製造を中止しています。天文学と乾板は、とても長い付き合いとなったわけです。 1枚目の写真は、イーストマン・コダック社の乾板(イーストマン40、12×16.5cm)1ダースの上蓋です。 2枚目から7枚目までは、木辺慈麿氏と奥様の村子氏が撮影された手札乾板です。(ただし...
2018.09.29 12:06新撰天文エハガキ 1941年(昭和16)に東亜天文協会から発行された天文絵ハガキです。1920年(大正9)山本一清氏により設立された天文同好会ですが、1932年(昭和7)東亜天文協会に改名しています。軍靴の音が聞こえる中、より学術的に聞こえるような名称に変える必要があったのでしょう。この絵ハガキの内、ドナチ彗星の写真が見当たらないのが残念です。写真の解説の裏に、東亜天文協会の規則が印刷されています。(資料はすべて伊達英太郎氏天文写真帖より)