1941年中国大陸・台湾・石垣島皆既日食(12)

東北帝大 松隈健彦教授の手紙(1941年4月19日〜7月16日)

 日中戦争中・太平洋戦争開戦間際、新聞に「戦時」という言葉が多数見られます。戦争とは縁遠い天文学にも、国威発揚的な表現が多数使われています。

 東北帝大班は、松隈教授以下5名(天文学的研究)は嘉魚縣に。中村左衛門太郎教授と加藤愛雄助教授以下6名(地磁気・地電磁の観測・電離層の研究)は、南京・北京・ハルピン・八重山・与那国島に観測に行きました。「紫外線日食」や「微粒子日食」では、広範囲の観測点のデータが必要だったことが新聞記事から読み取れます。

 東北帝国大学 松隈健彦教授から、水路部 秋吉利雄海軍大佐(当時)に送られた、日食観測に関する手紙をご紹介します。

「秋吉様 お手紙ありがたく存じます さて 日食観測の件につき ご配慮をかたじけなうし 色々ご厄介をおかけしております この度は色々重要なることをお願いをし下されありがたく つきましては御指図通り 別紙をお送りいたしますから宜しくお願いいたします 別紙に就いては 貴下のお下書きと同様にて 只一二ケ所加減したるのみであります 尚今後とも宜しくお願いします 来週金曜土曜と学研にて上京その節御目にかかり親しく御礼申し上げたく 先(まず)は 用事のみ 4月19日松隈健彦」

「秋吉様 前略ご免下されたく 先日はご多忙中、海軍省にご案内下されありがたく存じます。その節お願いいたしました海軍御用船の儀、その後如何の都合となっておりますでしょうか。先に申し上げました通り、7月下旬出帆ならば最も好都合かと存じますが、それより多少遅れても差し支えありません。とにかくご都合よろしく便船にてよろしく何卒ご配慮下されたく。

 尚前に申しました通り、同船には少なくとも一人の助手(理学士)を便乗させたく存じますが、また出来得れば3-4名願えますまいか。日食の費用はまだ文部省より指令来ずで、従って民船の金額を旅費として支給されるか見当がつきませんが、従来の文部省の予算より推算して誠に貧弱なる事は予想されますので、もし出来うべくれば御用船に便乗を願えまいかと存ずる次第であります。かようなる内情を申しまして誠にお恥ずかしい話ですが、貧すれば貪するとお笑い下されたく。

 今月中に多分例の天文術語委員会(*天文学術語委員会)が開かれるかと思われるので、その節に上京またお目にかかります。

 先ずは 6月4日 松隈健彦」

「秋吉様 先日は御多忙中を 色々御厄介になりました さてその節御話しておりました 例の漢口行きの御用船の件 その後どうなりましたでしょうか 時日も切迫してきましたので 小生も心配致しております 出発の時期は 海軍の御都合のよい様にて 結構でありますが 一番理想的なのは 前にも申しました様に 8月15日頃 現地に着く様になるのが望ましいです ただしその点は 海軍の御都合により 前後になるのも構いません 何卒万事宜しく 御願いいたします 6月12日 松隈健彦」

「秋吉様 昨日は電報を 又 本日はお手紙をいただきました。日食観測に関して多大なる援助を賜りありがたく、お手紙の趣は全て承知いたしました。御申趣の条件にて差し支えなく何卒宜しくお願い申し上げます。佐世保出港の日取りが決まればそれより1週間か10日前に仙台駅発にて発送すべく、尚上海漢口にての積み込み費用の件は勿論の事であります。乗船人員は荷物と一所とできるならば三人ぐらいお願いできればと存じます。尚場合によりては南京より漢口までの揚子江の風物は飛行機にて行くのは余りに殺風景につき、小生も場合によりては南京より便乗 ゆるゆると揚子江を味わいたき希望であります。尚来る7月5日(土)は学術会議あり上京しますが、その前もし必要あれば何時にても上京します。

6月19日 松隈健彦」

「二申 上海自然科学研究所より昨日電報あり。電文は

『南京にて日食観測事務統一の都合あり 貴下御交渉の海軍側より南京大使館付海軍武官へ連絡あるようせられたし』 というのであります。念のため申し上げます。」

「秋吉様 前略御免ください。かねてガソリン発電機一式海軍よりお貸しくださる様お願いしておりました。そのご都合でございましょう。以前にはその気が付いて小生も漠然たる考えにて、お貸しくださる様希望しておりましたが、その後具体的に考慮いたしまして、是非是非一台お願いします。日食観測が、或いは不可能になるのではないかと考えられますので、是非是非お願いしたく(借りれなくなれば他に求むる方法もありませんから)尚またその発電機の規格は100V10A位ならば最も望ましく思います。誠に恐縮ですが、その点御考慮御調査の上、できるならば、できるかできないか位を電報にて御返事いただければと思います。なにぶんよろしく。」

 秋吉大佐の赤字での「NO!」の書き込みが目を引きます。

「来月5日(土)学研の会議がありますので、海軍、文部省、その他と要議のため少し早目に3日(木曜)朝上京、同日朝8時頃水路部に貴下を訪問します。尤も必要でしたら何時でも上京します。 先ずは 6月22日 松隈健彦」

 秋吉大佐の赤の書き込みの内容は以下の通りです。

「・6月28日に電話にて打ち合わせ

 ・6月27日軍務

 ・佐世保-2日-(上海2∼4日)-7∼5日-漢口(2日)-1∼0日-Paichow

 ・最長16日最短11日 佐を1日に出発 7-31にて可なり」

 Paichowは簰州、佐は佐世保のことです。

「秋吉様 中村君を紹介いたします。発電機を動かす練習のため特に上京さしました。宜しく御指導下さい。中村君は一行の中に加わっていまして、分光器の方をやってもらいます。7月9日 松隈健彦

 佐世保出発の日取りが決まりましたら、早速お知らせ下されたく。荷物は今月(7月)20日仙台駅より佐世保港務部気付 東北帝大教授 松隈健彦受取として送付しますがそれにて宜しいでしょうか。」

「アス(明日) サセホニ(佐世保に) デンワシ(電話し) トイアワス(問い合わす) アキヨシ(秋吉)仙台市片平町69 マツクマ(松隈) タケヒコ(健彦) 7月14日」

「秋吉様 前略ご免下されたく 中村君が来たりまして色々ご厄介になったことと思います。さて出発もいよいよ近づき何かと心配して日を送っております。就いては佐世保出港の確かな日にちはまだ決まりませんでしょうか。その方が決まりませんと当方より荷物発送の日にちも決まりません。小生の長崎出港の日にちも決まりませんので、困っております。ただし、何時までも  として待っている訳にも行きませんので、やはりいつかのお話のありました通り、8月5日頃佐世保出港として想定した内内交渉を進めておりますがそれで良いでしょうか。貴方においても早急には決定しかねるご事情もあるかと思いますが、上記のような事情もありますので、決まり次第御報知を願います。」

「尚又 佐世保への荷物送り先は

佐世保鎮守府港務部気付 東北帝大教授 松隈健彦行

にてよろしいか。この点をお伺いいたしました。先ずは 7月13日 松隈健彦」

「秋吉様 度々の電報 また本日はお手紙確かにいただきました。色々ご迷惑をかけました。ただし、私もやっと安心しました。実は動員もあるので、或いは不可能になるのではないかと心配しておりました。荷物はご指示の通りの宛名にて7月30日頃佐世保に着くよう発送いたします。海軍大臣よりの許可証はまだ当方には来てない様ですが、いかがなものでしょう。文部省から発令される小生等の出張命令も、数日前発令されました。小生は23日頃仙台出発24,25日と東京に滞在し、貴下にも御礼を申し上げたく存じます。そして小生だけは8月2日長崎出帆にて昭慶丸に便乗したき希望です。先ずは 7月16日 松隈健彦」

 松隈健彦氏は、1914年(大正3)から1917年(大正6)まで、海軍兵学校の教官を勤めていました。そのことから、この日食観測遠征に関して、海軍に便宜を求めやすかったのだと思われます。繰り返される要望や催促に、秋吉大佐は相当ストレスを溜めたのではないでしょうか。

(引用)

故秋吉利雄氏保存資料

中村鏡とクック25cm望遠鏡

2016年3月、1943年製の15cm反射望遠鏡を購入しました。ミラーの裏面には、「Kaname Nakamura maker」のサインがありました。この日が、日本の反射鏡研磨の名人との出会いの日となりました。GFRP反射鏡筒として現代に蘇った夭折の天才の姿を、天体写真等でご紹介します。また、同時代に生きたキラ星のような天文家達を、同時期に製造されたクック25cm望遠鏡の話題と共にお送りします。

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