ローソップ島皆既日食(23)

ロソップ島民の思出(1)

 写真は、水路部 秋吉利雄海軍大佐(当時)が作成した「ローソップ及レオル島」地図です。各観測隊の観測拠点が、詳細に記入されています。麗子様情報によると、現在グーグルマップでは、レオール島がロオール島(Loal island)、ローソップ島がラオール島(Laol)となっているようです。

 1934年(昭和9)当時の世界地図です。

 1934年(昭和9)2月13日~14日の皆既日食帯地図です。

 水路部 秋吉利雄海軍大佐(当時)は、篤実な聖公会信徒でした。秋吉氏が「基督教教育」に寄せた、「ロソップ島民の思出」を3回に亘ってご紹介します。

『基督教々育』 第3年8月号(1934) ― ロソップ島民の思い出 ― 秋吉 利雄

 昭和9年1月、2月、わが委任統治南洋の1孤島ロソップに住む島民は、その祖先の未だ知らざる、世にも驚くべきことの数々を見た。島民は語るであろう。

「8000 t の軍艦が沖合に来て、60余名の文明人が上陸し、600個もあろうという荷物が揚がった。荷物は1つ1つがことごとく珍奇巧妙なものであった。海岸に杭を打ち、コンクリートの台を作り、小屋がいくつも建てられた。不思議な器械も方々に組み立てられた。天幕ばかりでも30釣(ちょう)も張られた。人々は教会堂の中に泊り天幕にも寝た。彼ら文明人は某日、それがしの時刻に太陽が光を失ふと預言したが真実その通りいささかの違いもなく天変は落(くだ)り、又預言通りに元に復した。その日食の間に、あらゆる器械を働かせ人手を動かして様々の仕事をした彼らの真剣さと厳粛な態度とはかつて見たこともなかった。彼らは実はその仕事の爲に、わざわざ大洋を渡って日本からこの島に来たのであった。日本からばかりでなく更に遠い米国からの人も交じっていた。発電機を動かして明るい電灯を点ずること、氷といふ冷たいものを複雑な食物に加えること、蓄音器を廻して美妙な音樂の聞かれることなども不思議であったし、トラック迄は愚か、日本迄も自由自在に通信出来る無線電信機というものも眼のあたりに見た。滞在4週間を通じて彼らは皆慇懃親切であり、よく我々島民を愛してくれた。日食後数日、船に乗って彼らが永久にこの島を去った後の淋しさに子供達は泣いたではないか。見よ海岸のあの巨大なコンクリートの柱を、あれこそ彼らの仕事の名残である。教会前の水タンク、これこそ彼らの追憶の喜びを汲めと我らに贈られた記念碑であるー」と。

 ロソップ住民には歴史もなく記録もない、口碑伝説すらもその数稀である。しかし、以上の出来事だけは、恐らくこまごましい思い出話と共に永く語り継がれ、後の世には或は奇怪な伝説めいた形をも見るであろう。又この文明人との接触によって島民の生活には物質上精神上、良かれ悪しかれ大きな刺激を受けたことも推察される。その影響こそ我らにも大なる責任の懸かっていることを感ずるものである。

     ○

 本年2月14日の皆既日食を観測する好適地としては、世界中ロソップ島以外に求められず、交通に、設備に、生活に不便多き土地のこととて、海軍と南洋庁とで授助を与えることになり観測隊は軍艦春日に便乗して科学遠征に向かったのである。フランス、ロシヤ、アメリカからも参加の申し込みがあったが、色々の都合で取り消しとなり、結局アメリカからの2名が日本の一行に加わった。わが国からは、東京天文台(8名)、東京帝大(2名)、京都帝大(10名)、文部省(1名)、水路部(3名)、海軍技術研究所(5名)及逓信省(2名)、外に新聞記者団(7名)。春日より陸上に派遣の下士官兵(15名)並に傭人(9名)。これら諸団体から成る内外総勢64名が国際的の観測隊であった。一行はおびただしい荷物(器械、材料、糧食等)と共に軍艦春日に乗り1月15日横浜を出港して23日夜ロソップ島外到着。24日人員器材の揚陸。観測隊は2月14日の日食観測に成功し、2月20日便船を以ってトラックに引き揚げ春日に移乗、2月23日同地を出でて北上3月3日横浜に帰還した。この観測行については当時新聞や雑誌にも広く報道され、又多少専門的なことは雑誌「科学」の5,6月号、同じく「天文月報」の4∼7月号等に載っている。

 筆者は命ぜられて観測隊派遣準備の事務に携わり、かつ実行に当たってロソップ島に派遣された。幸いにして観測隊一行と終始起居を共にすることが出来、隊の内務や外部との連絡に当たって来たので、ここに今自分の立場から見た島民の状況を思いいずるままに書き連ねて、自分の感銘を新たにしたいと思う。何がしか読者の御参考になる点があれば幸いである。

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 我が国の委任統治領たる南洋群島には、珊瑚礁又は火山岩から成る大小1400の島がある。島の総面積は、ほぼ東京府のそれに等しい。土着の島民は総数約50000、その内9割3分はカナカ族、7分はチャモロ族、カナカはチャモロに比して文化程度は更に低い。東カロリン群島のトラックの南東約60浬(かいり)にある珊瑚の環礁がロソップである。横浜を距つる1880浬。環礁は盥(たらい)の縁を水面にすれすれに沈めたような恰好で南北約9000 m 東西6000 m 、水道を通って中に入る。その北東周縁上にあるロソップ島が主島で南端周縁上にピース島があり、その外にも数個の島は点在するが人の住むのは前記2島のみである。ロソップ島はほぼ二等辺三角形をなし底辺が200 m 、等辺が300 m 、面積僅かに15000∼16000坪、島の岸を一廻りするに10分しか掛らない。島の高さ水面上1 m 位で、此の上に高さ15 m 位の椰子が密生している。パンの樹、タコの樹なども疎らにある。幅70 m の水道を隔てて北東方に無人島レオールがあって風を遮る。外洋の荒波は周縁の珊瑚礁に阻まれて砕け、その音は遠雷の如く夜も昼も、不安な響を立てているが環礁の内は波もなく湖水のような眺めである。

 住民はカナカ族に属し人口約380、男女殆んど同数、戸数40、この島に生を受け、生を送り、この島に葬られる。原始的な平和な人達である。

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 観測隊員の宿舎には、島内最大の建物たる広さ66坪の教会堂を借り之をあてることに南洋庁の方で取り計らわれた。内部では禁酒禁煙という条件は予め承知して行った。島民は全部基督教信者であることも勿論聞いてはいたが、別に大した興味も感ぜず期待もしなかった。

 1月24日未明、荷物の陸揚げに先立ち陸上の状況を視察する為に数名の人と一緒に初めて此の島に上陸した私は、急造の波止場から教会の所まで白の詰襟の制服に制帽を被り白靴を穿いた「青年団員」の一隊、その先に簡素な自洋服を着た婦人の一団、色とりどりの姿の少年少女の群が整然として堵(と)列していて、「気を付け」「敬礼」と日本語で号令の声も勇ましく鄭重な礼を以て迎へられた時、彼等の粛然たる態度を見て、思わず自分の夏服の皺や汚れに気が付いて、退け目を感ずると同時に、彼らの内には侮られない或るもののあることを直感した。その日の荷揚げにはロソップの青年団員50名は、ナマ島(ロソップ、トラックの中間にある孤島)ピース島から来援の50名と共に、深更までせっせと働いたが、色こそ黒けれ、動作態度や眼つき表情は素朴純真にして、陰険とか狡猾とかの印象は微塵も認められなかった。婦人達や子供らの様子を見ても野蛮な感じや嫌悪の情は起こらなかった。先ず島民に対する最初の印象はこういう風であつたが、滞在中この印象を傷つけることは1つもなかつた。

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 島民の信仰状態は着いたばかりでは判る由もなかったが、祈りの宮たる教会堂を学者の宿舎に供用するということは、島民に取っては無関心ではいられぬ筈と思われたので私は島民伝道師のルーベル君に会って、観測隊の来意を説明し、隊員の健康保持の為に教会堂使用の止むを得ないことを述べ、この内では禁

(旧字体は新字体に、送り仮名は現代的な形に、漢数字は算用数字に直しています。)

(引用)

基督教教育第三年八月號,通巻27號,1934

故秋吉利雄氏保存資料

中村鏡とクック25cm望遠鏡

2016年3月、1943年製の15cm反射望遠鏡を購入しました。ミラーの裏面には、「Kaname Nakamura maker」のサインがありました。この日が、日本の反射鏡研磨の名人との出会いの日となりました。GFRP反射鏡筒として現代に蘇った夭折の天才の姿を、天体写真等でご紹介します。また、同時代に生きたキラ星のような天文家達を、同時期に製造されたクック25cm望遠鏡の話題と共にお送りします。

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