ロソップ島日食観測行(5)
2月19日(月)晴時々スコール 服部忠彦
いよいよ明日はこの懐かしいローソップの島を去らなければならない。それにしても日食中実に好天気に恵まれたので、もしもあの時雨が降ったらこれほどまでに捗るまいと思われるほど荷造りもどんどんと進行し、箱詰めにした大きな望遠鏡は片端から伝馬船で平栄丸に運んで行く。いちいち波止場まで運んでいくことなしに、東京天文台の観測地からまっすぐ西方の海に停泊している平栄丸に運んで行くのであるから非常に便利である。中野氏の天幕を畳み、最後に天文台本部の天幕を始末した後はなんだか気抜けの体で手持ち無沙汰であった。ちょうど中野氏の天幕を整理している時であった。クエル、クエンの起こったのもこの時であると言ってもご承知ない人はご存知なないかもしれないが、中野氏天幕横で大きな緑色のトカゲを見つけ、これは良いお土産だというので島民に頼んで捕まえてもらった。我々にはとても気味が悪くて手づかみなどできないのに、島民は平気な顔をして捕まえ、ちょうどその場にあった空き瓶
に入れた。このままお土産にするわけにもいかないのでアルコールをつぎ込んだ途端に苦し紛れのトカゲがもう少しで飛び出そうになったので、恐る恐るビンを持っていた竹田氏もアルコールを流し込んだ中野氏も思わずヒャッと島民以上の奇声を発して、もう少しでビンを落とすところであった。2,3回飛び跳ねてもがいた後、口をモグモグやりながらいよいよ最後の息を引き取った瞬間、側に憐れみぶかい深刻な顔つきを見ていた島民たちに異口同音にアーメンと言われた時にはちょっと変な気持ちがした。併し中野氏はここにおいて、このトカゲは決して我々が無意味に神の御許に差し上げたのではない、人類の福祉のために動物学の研究のためにその亡骸はかくのごとくアルコール漬けにして永遠に残り、我が身を犠牲にして他の幸福を祈りつつ昇天したのであって、その意気やまた感嘆に値するものであると懇懇と説明したので、島民たちは分かったような分からんような顔をして頷いたとか。学術の研究に資するために念のため聞き置くが、ローソップ語でこのトカゲのことを何と言うかと聞いたところがクエンと言う。ここにおいて一言無からざるべからざるダジャレ居士某氏はいくらローソップの島民だってまさかトカゲはクエンだろうと言う。併しその発音が少しおかしいのでよく聞き直すと今度はクエルと言う。一同大笑。クエンとクエルとは大変な違いである。だがここの島民にしてみればLとNとの区別があまりはっきりつかないので無理もない。とかくするうちに天幕はすっかり畳まれ、コンクリートの台と打ち込んだ数多の杭の頭とが寂しく名残を止め
て、後は元の平和なローソップ海岸に戻ってしまった。
今夜寝るべき毛布のみを残してベッドまでもすっかり始末してしまったので、毛布を教会に運んでやれやれと一息つく。炊事場の方もすっかりしまってしまったので、夕食は若椰子の入った握り飯とサイダー。教会前の露天に置かれたテーブルの上に山盛りになった握り飯を、サイダーで喉を潤しながら最後の晩餐をしたためる。非常にうまい。
数日来新聞記者連中が労働奉仕をやって、是非とも我々が出発する前には完成させると意気込んで作りつつあった日食観測記念碑も完成した。永遠に残るであろう所の思い出深き記念物。我々の記憶の中にも、殊に彼ら300の島民の朦裡にも。やがて日が暮れかかる。三々五々名残を惜しみつつ集っていた島民の数が次第に増し、アッパッパ姿の女の人、子供等も多数集って記念碑前で決別の挨拶である。早乙女台長及びローソップ村長の感激に満ちた別れの辞があった後、子供らが別れの歌を歌う。
神共にいまして 行く途を守り
あめのみ糧もて 力を与えませ
また会う日まで また会う日まで
神の守り 汝が身を離れざれ
夕闇はますます迫り、水平線に見える太陽の残光も次第に影淡くなっていく。ほとんど互いの顔も識別し難い闇をついてリフレインし、「また会う日まで」の声のみ哀調を帯びて響く。近い将来にまた懐かしの日本に帰るという喜びの感情もいつか押しのけられて、短期間の知り合いではあるが、またいつの日会うとも知れぬ悲しみとも懐かしみともつかぬの感情がこみ上げてきて、共に歌う声も涸れ目頭は次第に熱くなってくる。馬鹿なと自分を叱りつけてみてもうっかり顔を俯けるとポタリと一雫落ちそうなので、極力天の一角を睨みつければ、逆光線で撮った写真の様なヤシの縞が淡い光を残している青空にくっきりと浮き出して見える。歌も終わって秋吉中佐発声のもとに互いに一言「さようなら」と言って頭を下げる。声を出そうと思っても咽喉の奥がつかえて一言も出る事か。無言で頭を下げて勘弁してもらう。一同同じ思いと見えて、あれだけの人間がしかも大の男が揃っていて蚊の鳴く様な声しか聞こえなかった。夕闇のうちに入り乱れて愛すべきコンパニーたちに名残を惜しんだ後、何もする事がないので早くから教会内のゴザの上に毛布を敷いてゴロ寝する。手荷物もすっかり船に運んでしまったのでガランとした教会を今宵一夜のお別れと今更のごとく見回す。そのうちに疲れも段々出てきたので、どこかで何かの話で盛んにキャンキャン渡り合っている声を夢うつつに聴きながら心はいつの間にか楽し我が家へ。
2月20日(火)窪川一雄
別離‼︎
夜来の雨は降りも止まず、ハラハラと時雨にも似て教会堂のトタン屋根を打っている。時折ザーと音を立てて大粒の降りに変わる。いよいよお別れの日だ。懐かしい様な哀しい様ないろいろ感情が交々胸に迫って来る。全員4時頃起床して最後の手荷物を片付ける。夜の明けると共に雲も薄らいで、濃い緑の椰子の葉に陽の光が漏れ始める。
1ヵ月近くこの狭い島に共に親しく暮らしたローソップの人々よ‼︎「サヨーナラ」
緑の椰子の林、白い砂浜、黒い小豚、赤い小鳥・・・・皆懐かしい思い出の種である。一度艀に乗ったがまた島に上って、一同日食記念塔の前で写真を写す。平栄丸、瑞鳳丸の2艘に分乗していよいよ日食観測隊の一行はこのローソップ縞を離れる。時に午前7時‼︎
船のスクリューの音と共に海岸に立って見送る島人の影も次第次第に小さくなっていく。環礁を出れば波は高くなりかなり動揺を感じる。ナマ島を右に見て、トラック島に進路を取る。船の甲板の上には、故郷への土産品?椰子の実等がいっぱいに広げられている。
正午頃トラック等の山々が見え始める。環礁をかなり回って、午後4時過ぎ夏島の南洋貿易会社の桟橋近くに停泊する。南洋庁のお役人の方々のお出迎えを受けて、久しぶりに懐かしい日本からの手紙を受け取って一同喜色満面。貴重品と手荷物を携えて軍艦春日に移る。ここでも軍艦に託された手紙、お菓子等を受け取って学生室でささやかなコンパを始める。夜は秋吉中佐の部屋で明朝平栄丸から春日に荷物を移す相談をする。
2月22日 藤田良雄
朝3時過ぎ腹痛で目を覚ましたが大して痛まないので、そのまま眠り目が覚めたのは8時頃だった。9時のカッターでトラック島に上陸。すぐトラック郵便局に行き家に電報を打つ。それからしばらく南陽庁のバルコニーで休息した。涼しい風び吹かれてトラック夏島の緑、広々した海岸を見下ろしていると今までの苦しみはどこかへ飛んでいってしまう様だった。トラック旅館で昼食。「うどん」のまずいのにも驚いたが、1杯分金「80銭也」には口がきけなかった。然しいろいろなコンディションの下では無理からぬ事かもしれない。午後旧教の教会を訪れる。ガランとした内部にはキリストの種々の像が飾られてあった。この諸島の宣教師川島さんという人に会い、島民の相撲を見物しながら島民の生活状態を拝聴した。明日はこの島ともお別れだ。
2月23日(金)晴 服部忠彦
ふと眼を開けると軍艦春日のベッドの上に寝て居るが船の動揺は少しも感じない。そうだ今日は出発だ。懐しの南洋と訣別を告げて又8日間島影1つ見えない海上生活だ。部屋には数々の土産物がそれでなくても餘り広くないこの寝室に所狭しとばかり並べられてある。朝食を終えた頃から何となくざわざわとし始めた。出発の時が迫ったのである。見ると1艘の伝馬船に公学校の生徒を満載し、その1人1人が手に手に国旗を持っての見送りである。今まで散々御世話になった瑞鳳丸にも小学生が乗込んでやはり旗を振りつつ名残を惜しむ。やがて伝令が忙がしく走る。大声で号令がかかる。じっと舷側を見つめていると少しずつ艦が動いて居るのが感じられる。心は張り切って喜びとも哀愁ともつかぬ感情がふと胸をかすめる。船の動きが段々早くなって来る。小学生をのせて瑞鳳円と公学校の生徒を満載した舟とは軍艦の両側に並んで、合唱、万歳、歓呼の声。旗が波の様にヒラヒラと動く。便乗者一同も或は後甲板に或は探照灯甲板に密集して、帽子を振り、ハンケチを振り、さよならを絶叫する。軍艦の動き益々早く見送りの船はだんだん取残されて行く。トラック島の山と共に赤白の旗が見分けがつかなくなるまで手を振って居た。
午後2時30分後甲板で運用長から軍艦生活に関し講話があった。各種の信号、号令等を詳細に説明され、また便乗者として守るべき規則等について細細と注意があった。段々軍艦に対する認識を深くして行くと共に往航の際の我々の無秩序、無作法等が段々と判って来て穴でもあらばはいり度い様な気もした。
この日の正午艦の位置は東経151度49分、北緯7度46分、温度28.3度である。夕方ルクティ島をかすかに右手に見てこれから八丈島を見るまでは島を見ることが出来ないとの事。又四方青海原の中を一路日本に向う。考えれば嬉しい様な不安な様な気がする。三鷹に居る連中はどんな顔をして仕事をやって居るだろうと思うと急に早く帰り度くなって、この8日間を何とかしてもっと縮めるわけにはいかないものかなどと考え乍ら、大分慣れた艦上生活を又ここに繰り返してベッドにもぐり込む。
(引用)
故秋吉利雄氏保存資料
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