宮原 節氏と第六高等学校(5)

宮原 節氏とご家族

 宮原 節氏は物理学者でしたが、自宅に温室を設け植物を愛しました[1]。

 1942年頃に撮影された宮原 節氏のご家族。前列左から綾子(長女)、貞子(妻)、雅彦(三男)、澄江(次女)、トモ(節の母)、後列左から一喜(長男)、節、英明(次男)(敬称略)

「丘上の焼け跡に昇る雲」(1947年3月15日 宮原 一喜氏⦅節氏ご長男⦆撮影、場所は岡山か広島)

 宮原 節氏は広島高等学校に異動後すぐに体調を崩され、1947年9月23日に岡山のサナトリウムでご逝去されました。

[1]---宮原 節氏のお孫様談(2025/09/07)

(写真は宮原 節氏のお孫さまにご提供いただきました)

中村鏡とクック25cm望遠鏡

2016年3月、1968年製の15cm反射望遠鏡を購入しました。ミラーの裏面には、「Kaname Nakamura maker」のサインがありました。この日が、日本の反射鏡研磨の名人との出会いの日となりました。GFRP反射鏡筒として現代に蘇った夭折の天才の姿を、天体写真等でご紹介します。また、同時代に生きたキラ星のような天文家達を、同時期に製造されたクック25cm望遠鏡の話題と共にお送りします。

7コメント

  • 1000 / 1000

  • manami.sh

    2025.10.04 10:34

    追記です。 「第六高等学校一覧  自大正3至4年」には宮原節氏は第二部一年甲類とあります。 理系・英語ですね。
  • manami.sh

    2025.10.04 10:12

    tosさま、調べていただき、ありがとうございました。安芸郡音戸町に藤脇尋常小学校があり 大正2年~大正3年にかけて訓導(現在の教諭 )として在職した方でした。依願退職です。 18歳以上であれば訓導に採用されたようですし、大正3年に六高入学であれば修学3年で、大正 6年卒業、京大入学もつじつまが合うと考えたしだいでした。「丘上の焼け跡に昇る雲」の建物は 岡山医科?、何分とも?なのですが。
  • tos********

    2025.09.29 23:35

    @manami.shmanami.shさま おはようございます。情報ありがとうございました!「安全ポケットシャツ」初めて知りました。小学校教員の件は記録上は見つかりませんでした。節が書いたメモによれば大正6年7月2日に六高を卒業し、同日、京都帝国大学理科大学入学とあります。