宮原 節氏と第六高等学校(5)

宮原 節氏とご家族

 宮原 節氏は物理学者でしたが、自宅に温室を設けるほど植物を愛しました[1]。

 1937年5月8日に撮影された宮原 節氏のご家族。

 宮原氏は1943年に広島に帰郷し、広島高等学校教授の職に就きました。戦後体調を崩し、広島か岡山の療養所で撮影したのが上の写真です。

 「丘上の焼け跡に昇る雲」(1947年3月15日 宮原 節氏撮影)

 「地上は焦土と化しても、自然界は変わらない」宮原氏の最期の思いが伝わってくるような写真です。

[1]---宮原 節氏のお孫様談(2025/09/07)

(写真は宮原 節氏のお孫さまにご提供いただきました)

中村鏡とクック25cm望遠鏡

2016年3月、1968年製の15cm反射望遠鏡を購入しました。ミラーの裏面には、「Kaname Nakamura maker」のサインがありました。この日が、日本の反射鏡研磨の名人との出会いの日となりました。GFRP反射鏡筒として現代に蘇った夭折の天才の姿を、天体写真等でご紹介します。また、同時代に生きたキラ星のような天文家達を、同時期に製造されたクック25cm望遠鏡の話題と共にお送りします。

2コメント

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  • double_cluster

    2025.09.17 09:31

    manami.shさま この度も貴重な情報をありがとうございます。戦後宮原家では、戦中のことはあまり語られなかったそうです。お孫さまが節氏の天文との関わりを知られたのは2017年のことだったとお聞きしました。節氏の政府による欧米留学の目的は、世界最先端の原子物理に触れることだったように思います。そのような中、各国の天文台を視察したのは、山本一清氏による勧めがあったのではと推測します。
  • manami.sh

    2025.09.15 12:42

    ロードアップ、お疲れさまです。今回もワクワクしながら見せていただきました。 宮原節氏の家族写真は昭和12年なので御本人、御母堂、夫人、二男二女の7人、 7人で一緒に暮らしていたのでしょうねぇ。 このあと昭和14年に三男が生まれ、8人家族。(「人事興信録第13版」昭和16年) 明治から大正にかけて広島市中島町で洋傘、シャツ、雑貨卸商を営んでいた方いらっしゃいますが。宮原節氏の御尊父なのでしょうか。 来訪した野田氏とは、第六高等学校の教授兼生徒主事であった野田浄曜(じょうよう)氏で しょうか。(明治33年生、東大卒) 六高では修身・哲学を担当していましたが、昭和16年に松江高等学校に異動しました。 (その後、1957.3迄、教職 滋賀県立農業短期大学教授、既に僧籍に入っていたのか その後は住職) 主著「カントの『純粋理性批判』に於ける図形論」『哲学雑誌』450,452,453 1924 貴重な写真ですねぇ。