宮本正太郎氏は、1912年(大正元)尾道市の生まれです。1933年(昭和8)3月に旧制姫路高等学校を卒業、山本一清氏の強い勧めもあり、同年4月に京都帝国大学理学部宇宙物理学科に入学しました。(旧制姫路高等学校3年生の時には、花山天文台で観測実習を行なっています。)1936年(昭和11)3月同大学卒業、卒論のテーマは「相対性宇宙論」でした。その後、1943年(昭和18)に、京都帝国大学理学部助教授、1948年(昭和23)に京都帝国大学理学部教授に昇任しました。1958年(昭和33)から1976年(昭和51)まで、花山天文台長を務めています。
宮本氏は、月・惑星の観測的、理論的研究に専念し、1968年(昭和43)には服部昭氏、中井善寛氏の協力の下、飛騨天文台を新営しました。月面クレーターの火山説(地殻変動論)や、火星の南北両半球にまたがる大気循環論などの理論は、宮本氏自身の緻密な観測に基づいています。宮本氏は天文普及にも心を配り、多くの普及書の出版と共に、ラジオやテレビにもしばしば出演し、その温顔とソフトな語り口で視聴者を魅了したそうです。
宮本氏は、1941年(昭和16)に、「中性子星の内部構造に就て」という論文を書いています。ソビエトのランダウ(1938年)やアメリカのオッペンハイマー(1939年)ら、ノーベル賞級の学者と同時期に中性子星を研究していました。また、1943年(昭和18)には、太陽コロナの温度が100万度であることを世界に先駆けて提唱しました。
宮本氏と京都コンピュータ学院との関係は、1976年(昭和51)の名誉学院長就任により始まりました。その頃、類似の専門学校が多数開設され、京都コンピュータ学院の経営状況が思わしくありませんでした。当時の学院長であった長谷川靖子氏が、京都大学理学部宇宙物理学科出身であったことから、宮本氏は名誉学院長就任を承諾しました。
宮本氏と長谷川氏の師弟関係は、リンクの「宮本正太郎先生をお偲びして」をご覧いただくと、たいへん興味深いです。宮本氏逝去の後、長谷川氏は、1993年に「宮本正太郎論文集」(1709ページ)を、京都コンピュータ学院から発行しています。
(1.2枚目の写真及び宮本氏の略歴は、「宮本正太郎論文集」1993年5月11日、京都コンピュータ学院より。5枚目[本館]と6枚目[講堂]の写真は、旧制姫路高校跡地[兵庫県立大学環境人間学部キャンパス]に残っている、宮本正太郎氏が学んでいた頃の歴史的建築物です。この講堂を使って、NHKの朝ドラ「あさが来た」が撮影されました。)
参考文献:日本アマチュア天文史,日本アマチュア天文史編纂会,恒星社厚生閣,1987
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