アッベは、家族全員が腸チフスにかかるという経済的困苦の中、イェーナ大学の正教授の夢を捨て、カール・ツァイス社との関係を深めていきました。フリードリッヒ・ヴィルヘルム大学の光学教授や、ベルリンの物理学研究所共同所長になってほしいという要請も断りました。アッベは、企業としてのツァイス社の存続を第一に考えました。同族経営が将来に禍根を残すことを危惧し、経営に消極的だったカール・ツァイスの息子、ローデリッヒ・ツァイスの退職を十分な補償を持って勧めました。また、カール・ツァイス社の実質的な所有者となったアッベは、自らの財産をカール・ツァイス財団に全て捧げました。財団が、ツァイス社とショット社を実質的に管理指導する体制を築きました。そして、自らは指導的一社員となりました。また、アッベの父親が過酷な労働環境の中で働く姿を見て育ったことから、ツァイス社やショット社で働く労働者の労働環境を改善しました。一日8時間労働・有給休暇・医療保障・退職金・年金制度等を、20世紀初頭に定款(ていかん)により定めました。
カール・ツァイス財団は、ナチス政権下でもアッベが定めた民主的な定款を重んじ、存続し続けました。東西ドイツ分裂の際には、アメリカによるカール・ツァイス財団指導者の西ドイツへの送還(イェーナ市のソ連占領が迫っていたため)や、ソ連による東ドイツ領内のカール・ツァイス財団解体の試練にもあいました。また、東ドイツ崩壊まで、西ドイツにあるツァイス社と、東ドイツ国営企業ツァイス社とのライバル関係が続きました。ドイツ統一後は、もう一度、一つのカール・ツァイス財団になりました。
アッベは晩年、ツァイス社を静かに退職しました。それを知った従業員は、アッベの自宅まで2000本以上のたいまつを掲げながら、全員が行列をつくって行進したそうです。そして、工員の代表者が夫人に支えられてバルコニーに現れたアッベに、感謝の念を伝えました。
「敬愛する先生!カール・ツァイス社とショット・ウント・ゲン社の指導者、カール・ツァイス財団の犠牲をいとわない創立者、科学と産業の天才的な助成者、労働の気高く公正な友の前に、愛情と敬意において、ここに集まった全ての従業員の名において、真心の感謝の念、絶対的な敬慕、限りない信頼の表現としての我々の大喝采を受け入れられるよう。・・・・私どもの尊敬し、愛慕する先生、エルンスト・アッベ博士万歳!」
万歳の後、みんなが歌う「どうしてあなたのことを忘れることができようか、あなたが私にとって誰であるかを知っている・・・」を聴き、アッベは手を振って小さな声で「本当にありがとう、本当にありがとう。」と深く感動して部屋に戻ったそうです。アッベは、その1年数ヶ月後に亡くなりました。
アッベの生涯を思う時、私は、中村要氏のことを思ってしまいます。(最初は無給で大学に勤めていたこと、大学に理化学機器を納入していた技術者と共に、重要な開発を進めていたこと[中村氏の場合は、西村製作所]、発明や技術を惜しみなく公開したこと[中村要氏は反射鏡研磨技術の公開。アッベは、顕微鏡のアポクロマート対物レンズや照明装置等の特許を取らなかったこと。]等)
中村要氏も、アッベを敬愛していたのではないかと、私は想像してしまうのです。
参考文献:ツァイス経営史,野藤 忠著,森山書店
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