本書は、1924年(大正13)に発行されました。著者は、W.H.ピッカリングです。兄はE.C.ピッカリングで、1876年から42年間、ハーバード大学天文台長を務めた人物です。
W.H.ピッカリングは、兄の要請で、ペルーにハーバード大学ボイデン観測所を作りました。写真星図のための撮影が主な仕事でした。しかし、W.H.ピッカリングは、その要請に応えなかったようです。
W.H.ピッカリングは、ペルーを去った後、ローウェル天文台(火星観測で有名)の設立を助けたり、ジャマイカに作った天文台で、惑星観測や写真撮影を始めたりしました。国際火星観測連盟の主催者でもあります。(中村要氏も、1924年に国際火星観測連盟のメンバーになり、1931年まで火星スケッチを送っています。)
ところで、本書カバーの文章を読むと、何とも時代錯誤の感を覚えます。しかし、火星人の存在はともかく、当時は、火星に植物や生物が存在していることは、広く信じられていたようです。有名な「火星人襲来」(俳優のオーソン・ウェルズが、音楽番組の途中に臨時放送で流したドラマ。アメリカで、それを信じた人々の間にパニックが起こりました。)のラジオドラマが放送されたのが1938年ですから、当時の人々が火星に持っていた知識が、どれほどのものだったかは想像できます。
火星表面の観測として、1840年頃、ドイツのベアとメドラーが火星図に条(すじ)を描いています。その後、1864年には、鋭眼で有名なドーズが8~10本の条を火星上に認めています。条についての最も有名なことは、イタリアのスキアパレリが言ったカナ リという言葉です。スキアパレリは、条の大部分が2本に分かれていることに気づいて、「これは火星表面の最も特徴ある現象である。」と発表しました。彼は、この条をイタリア語で「カナリ(条、すじ)」と名付けました。これが、フランス語で「条・運河」と訳され、英語で「キャナル(運河)」と訳されました。そこから、運河なら水が流れていて、それを掘った火星人がいるだろうと、想像が膨らんでいったということが伝わっています。
これが、一般庶民の誤解なら分かるのですが、プロの天文学者にも影響を与えていったのは興味深いことです。1870年から1914年にかけて、火星を観測するために、口径50cm以上の大屈折望遠鏡が26台も作られました。世界最大のヤーキス天文台102cm屈折望遠鏡も、1897年に作られています。プロの世界で、火星の運河論争に終止符が打たれたのは、1930年のことです。
参考文献:火星,ピッカリング著・古川龍城訳,白楊社
天文アマチュアのための新版屈折望遠鏡光学入門,吉田正太郎,誠文堂新光社
中村要と反射望遠鏡,冨田良雄・久保田諄著,ウインかもがわ
シリーズ現代の天文学別巻天文学辞典,岡村定矩,日本評論社
天文学人名辞典,中山茂,恒星社
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