中村要氏が亡くなったのは、1932年(昭和7)9月24日でした。中村氏は、亡くなる直前まで、「天界」(天文同好会会誌)に、毎号「観測帳」を連載していました。
「天界」1932年1月号から、連載最後になる9月号までを振り返ります。毎号の「観測帳」には、注目すべき天文現象が挙げられています。そして、「観測帳」の最後には、中村氏の近況が書かれています。足跡を辿ってみたいと思います。
(1月号)
お断り 編集者の都合で12月号に出るはずのこのページが1号遅れました。編集者の方でも、今後は毎号出して下さるはずであり、筆者も段々面白い材料を提供したいと思います。
(2月号)
光学研究室より 去る10月(1931年10月)完成した大研磨機は、12月6日に初仕事をした。研磨機は、自分の中型研磨機を多少改良したもので、優に口径75cmの大反射鏡が磨ける。無音に近い滑らかな運転。そのでっかさには、来た人はちょっとびっくりするらしい。その内に内容を報告いたしましょう。12月末に太陽部で製作計画中のスペクトロヘリオスコープに使う口径10cm、焦点距離約4mという馬鹿に長い凹面鏡2個を作った。仕上がった焦点距離は393及び395cmであった。
近況 小生の身長は、公称6尺(約180cm)で通用させていたが、最近測ったのは5尺9寸6分で少々切れる。体重は19.5貫(約73Kg)で太った方ではないが、大男には相違ない。丈の高いのは、そもそも一分(約3mm)でも天に近いので、星を見るには都合がよろしい。
(3月号)
光学研究室より 平面がNo.300になったので、記念に自分用の16cm鏡の予備平面を作った。径165mmの面を磨いたが、見事な面が得られた。誤差は20分の1波長は出まい。神戸の改発氏の13.5cm、ぺツバル玉(レンズ)のガラスが着いたので、2,3月はこれの研磨に忙しい。
(4月号)
研磨室より 改発氏の13cm写真鏡玉は、2月末に着手して、3月10日までに前玉を。3月末までに後玉を完成の予定。8面磨くから大仕事である。4月早々には、20cm鏡を1個磨く予定である。器械が完備したから、依頼を受けたものは全部引き受けている。
筆者の天文台における仕事は、30cm屈折鏡で行う赤道儀観測であって、眼視と写真と両方を兼ねている。彗星の方を主にしているので、眼視的に測微観測をするほか、付属のF3鏡で彗星の尾を観測する。彗星は観測するものが無くて、時々暇なことが多いので、小遊星(小惑星)の方を従にして、11cm写真レンズで位置及び光度の観測をしている。11cm玉は自作のもので、13等以下のものが観測できかねるので能率が少々悪いが、広角の点ではシメイス天文台の12cmテッサー玉と等しい仕事をしている。推算誤差大きいもの、或いは新小遊星は眼視的に測微観測をする。観測帳の記事は、以上の仕事から産まれるものである。いずれも移動するものは、臨機応変の処置を要するもので、花山で開業早々はなかなか難しかったが近頃大分慣れた。
(5月号)
研磨室より 改発氏の13cm人像鏡玉は前玉を磨いてから、送ってきたフリントガラスがクラウンガラスと間違っていたことが分かり、従って新しいガラスの着くまで約3カ月作業を延期しなければならなくなった。
[5月号には、「花山天文台の光学工場(1)」という6ページにわたる記事も掲載されています。]
(6月号)
花山便り 5月から彗星で忙しくなると思っている。私室の南側の日当たり良い所に桜草を植えたのは良かったのであるが、一夜の間に葉がなくなった。不思議なことだと思って調べると、時々顔を見せる山兎に食べられたのらしい。構内には昨年生まれた子兎を加えて、二三匹はいるらしい。住所は不明。
[6月号には、「花山天文台の光学工場(2)」という4ページの記事も掲載されています。]
(7月号)
光学研究室より 5月中に55mm対物レンズを2個研磨する。焦点距離は70cmに選んだ。今回彗星だよりを引き受けることになったために、多少内容も変わったことをご注意願いたい。
(8月号)
光学研磨室より 6月になってから直径6cm弱、焦点距離70cmの対物レンズを2個仕上げた。10cm以下のものは全部手磨きでないと良い面ができないのでやりにくい。改発氏の13cm写真鏡玉のフリント材が着いたので、6月末から7月にかけてその工作に忙しい。
[中村要氏は、7/20-21にかけて近江の石山で開催された黄道光会議に出席しています。]
(9月号)
改発氏の13cm写真玉 改発氏の写真玉のフリント材は、7月13日に研磨を完了した。13cm8面であるし、芯取りにも骨が折れる。
時々出てくるユーモアあふれる文章に、中村氏のほのぼのとした性格が垣間見られるような気がします。
中村氏が体調を崩し、郷里に帰ったのが7月でした。そして、11月号には、中村氏急逝の知らせが掲載されました。
最後の大仕事であった改発氏の写真玉の完成まで、中村要氏は、残る力を振り絞ったように私は感じました。
参考文献:天界,天文同好会,1932.1~11月号
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