五藤光学研究所

 五藤光学研究所は、1926年(大正15)に、五藤斉三氏が設立しました。現在の五藤光学研究所は、アマチュア用の天体望遠鏡製造からは撤退し、プラネタリウム等を主力商品にしています。プラネタリウムの世界シェアは約40%、国内シェアは約66%のトップメーカーです。

 創業者の五藤斉三氏(1891~1982)は、1921年(大正10)に日本光学工業(現ニコン)に入社しました。そこでは、小型望遠鏡の営業をしていました。しかし、望遠鏡が高価なため、年に1本程度しか売れず、焦燥感を抱いていたようです。五藤氏は、会社にいろいろと進言しましたが、受け入れてもらうことができませんでした。そこで、天体望遠鏡が将来有望と見込んだ五藤氏は、日本光学工業を思い切って退社し、1926年(大正15)に五藤光学研究所を創業しました。

 五藤氏は、日本全国の学校にアンケートを配り、「いくらだったら、天体望遠鏡を購入できるか。」と尋ねました。すると、多くの学校から返答があり、50円(現在の貨幣価値で、10万円〜15万円)ならば購入するということでした。五藤氏は、シングルレンズ3cmF30の望遠鏡を作製し、30円(現在の貨幣価値で、6万円から9万円)から40円(8万円から12万円)で販売しました。すると破格の廉価ということで、月に100台以上もの注文が入り、事業は軌道に乗ったようです。

 五藤氏は、1920年(大正9)に発足した天文同好会にも入会し、1925年(大正14)には東京支部長になりました。その後、十数年間、自宅で懇話会や観測会を行い、講師として野尻抱影氏を招いています。

 中村要氏と五藤斉三氏との繋がりは、1926年(大正15)から、中村要氏が亡くなる1932年(昭和7)まで続きます。中村氏が講演会で上京した際、五藤氏が勤めていた日本光学の工場内を見学したことがあります。その際、非常な興味を持って見学していた中村氏から、反射鏡研磨用のピッチ、金剛砂、紅柄、ピッチ網等の分与を、五藤氏は頼まれました。「これで、反射鏡研磨の全ての準備が整った。」と、中村氏は喜んでいたそうです。その後、毎年の様に、中村氏と五藤氏との交流は続きました。五藤氏は、中村氏に接眼鏡やプリズム、小型のレンズ類を供給しました。また、中村氏が練習のために作った反射鏡を希望者に販売し、経済的にも中村氏を助けています。中村氏は、五藤光学研究所が作製したレンズ類を検査・批評する役割を担っていました。「事業上においても、経済を度外視した関係を願ってきた。」と、五藤氏は述べています。中村氏は、上京した際は、五藤氏宅に泊まり、交流を深めました。

 国内の老舗光学メーカーである、五藤光学研究所や西村製作所と、それぞれ創業時から大きく関わり大切な役割を果たしてきた中村要氏。この事実は、多くの方々がご存知ないことだと思います。

(カタログは伊達英太郎氏天文蒐集帖より、*昭和初期の貨幣価値ですが、1929年の世界恐慌の影響により、年により大きな差があります。ある資料では、昔の600倍、別の資料では2000~3000倍です。天体望遠鏡が当時高価な商品であることから、今回は2000~3000倍で計算しました。)

参考文献:日本アマチュア天文史,日本アマチュア天文史編纂会,恒星社厚生閣,1987

     天界,天文同好会,1932.12月号

     天体写真NOW No.3,誠文堂新光社

     五藤光学研究所,Wikipedia,2020.3.15閲覧

中村鏡とクック25cm望遠鏡

2016年3月、1943年製の15cm反射望遠鏡を購入しました。ミラーの裏面には、「Kaname Nakamura maker」のサインがありました。この日が、日本の反射鏡研磨の名人との出会いの日となりました。GFRP反射鏡筒として現代に蘇った夭折の天才の姿を、天体写真等でご紹介します。また、同時代に生きたキラ星のような天文家達を、同時期に製造されたクック25cm望遠鏡の話題と共にお送りします。

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