少年天文研究会

 伊達英太郎氏(1912-1953)の天文や科学に対する熱き思い、そして、これらを多くの若者に広めていこうという気概が、これらの冊子に込められていると思います。伊達氏は、この時若干16~17歳です。この頃の伊達氏について、「日本アマチュア天文史」から抜粋したいと思います。

 「伊達英太郎は、天文同好会の大阪地方の支部の一つ、南支部長であったが、1929年少年天文研究会を組織し、機関紙「ミルキーウェイ」を出し若手の指導に当たった。参加した会員は大阪はもとより全国に及び、東京市立二中(現都立上野高校)の20名をはじめ、約70名の会員がいた。ところがある時、会費を値上げしようとしたところ、会員が一気に減少したのに失望し、少年天文研究会の方は解散し、改めて大阪天文研究会として再発足した。(1931年)その後、伊達の出征などで会の盛衰はあったが、「ミルキーウェイ」または「銀河」の名称は踏襲され、ついには大阪地方を統一して、電気科学館に本部を持った天文研究会になった。」(引用:「日本アマチュア天文史」日本アマチュア天文史編纂会編、恒星社厚生閣P.318より)

 「電気科学館二十年史」(大阪市立電気科学館発行)には、「1940年(昭和15)4月13日、少年天文同好会を結成して天文知識の向上と望遠鏡による観測を継続行うこととした。」とあります。

 また、『京都大学学術情報リポジトリKURENAI紅 附録「星と空」山本先生の思い出記事総集編』より、山本一清氏の「ゆかりの友(3)伊達英太郎君」を引用したいと思います。

 「ゆかりの友(3) 伊達英太郎君」

 「天文同好会が出来て以来、大阪かいわいには真にたよりとするに足る会員が多い。その 中でも伊達英太郎君は最も有力な会員の一人であった。

 伊達君は、同好会の創立以来の会員ではない。しかし、関東大震災の直後、即ち大正 の末頃には既に十数名に上る熱心なアマチュア天文家のリーダの一人として、伊達君は目 立つ人物であった。生家は裕福な実業家で、大阪市の中央部に立派な店舗を経営し、市の北郊 雲雀丘には美しく手入れの行き届いた別荘を有って居られた。伊達君は多くの学友たちと 交わるために市内の御宅の一部を解放して、小さい会合など度々催されたが、天体の 観測や研究、執筆などのためには雲雀丘を基地としてゐたようである。伊達君を中心とするグループは、大抵皆二十代の元気な会員ばかりで、観測に熱心なのや、談論風発型や、夢のような計画ばかりして仲間を雲に巻く人やいろいろな人物が集まったが、伊達君は此 等のリーダとして、皆に信頼されてゐた。京都からは中村要君が時々この仲間に加わったが、私も毎年一二回招かれるがまゝに南炭屋町の会合に出席し、又、雲雀丘の方にも泊めて頂いたことがある。

 家庭を有たれてからも、すべてに恵まれた生活ぶりで、多くの人々を羨やませるに足るものであったが、どうしたわけか、健康が勝れず、そのためにやりたい天体観測も医師から止められる場合が多かったらしい。雲雀丘には口径 25cmと15cm と2台の反射望遠鏡を備へ、身体の調子が良い時には、昼間は太陽、夜は木星や火星の如き遊星面の観測を伊達 君は楽しんで居た。太陽黒点の立派な写真を沢山撮られたし、又一時は日本では余り例の無いプロミネンスの連続観測を行われた。技術は真に優秀で、器械の能率を百パーセント発揮された。遊星面観測の方でも多くの記録や報告文を遺されたばかりでなく、後輩の指導を熱心にやり、今日の O.A.A.遊星面課の発達の基を築いた。大戦後、急逝されたのは惜しい限りである。」

(『星と空』第 37 号、1957 年 2 月号)

(1枚目写真:「天文研究会新年茶話会」1940年(昭和15)1月13日[於:伊達氏邸]、2枚目写真:「科学少年」発行は、左から1928年3月・4月・5月・8月、9枚目写真:右から1928年10月・11月、「研究」1929年2月、10枚目写真:「銀河」発行は、右から1929年3月・4月・5月、11枚目写真:1929年6月・8月・9月、表紙には「大阪少年科学同好会」とあります。それぞれ20~30ページの分量で、伊達氏の手書きの文字がびっしり並んでいます。)

 

中村鏡とクック25cm望遠鏡

2016年3月、1943年製の15cm反射望遠鏡を購入しました。ミラーの裏面には、「Kaname Nakamura maker」のサインがありました。この日が、日本の反射鏡研磨の名人との出会いの日となりました。GFRP反射鏡筒として現代に蘇った夭折の天才の姿を、天体写真等でご紹介します。また、同時代に生きたキラ星のような天文家達を、同時期に製造されたクック25cm望遠鏡の話題と共にお送りします。

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