シュミット・カメラは、リトアニア出身の光学研究者、ベルンハルト・シュミット(1879-1935)が開発した天体用カメラです。反射望遠鏡のコマ収差(光軸外の1点を光源とする光が、像面において1点に収束しないこと)なしの良像範囲を格段に広げた、画期的な発明でした。
シュミットがこの光学系を完成させたのは、1930年(昭和5)でした。そして、廣瀬秀雄氏がシュミット・カメラの情報を入手したのが、1939年(昭和14)です。その後、日本は太平洋戦争に突入し、廣瀬氏のシュミット・カメラ研究も、時代の渦に飲み込まれていきました。
終戦後、東京天文台本館を空襲で失った廣瀬氏をはじめとする天文台職員の仕事は、細々とした業務の再開と、空き地を芋畑にすることとその監視でした。そのような晴耕雨読の時期に、廣瀬氏が執筆したのが、この「シュミット・カメラ」です。仙花紙(終戦直後に古紙などを漉き直して作った良質ではない再生紙)に印刷された、粗末な体裁の本です。
内容は専門的で豊富、数式もたくさん出てきます。本書で示された研究内容が、後日、東京天文台木曽観測所105cmシュミットカメラに結びつきました。
ところで私は、シュミット・カメラ研究に辿り着くまでの、廣瀬氏の次の言葉に衝撃を受けました。
「単純な放物面反射鏡で高速度の、たとえばF/3のカメラを作るような考えは誰にも浮かびやすいものであるが、これについてはすでに反射鏡研磨の大家であった京都大学のN氏(中村要氏)が16cm F/3を試作され(1928)、その成績の報告が早く発表されていた。そこには種々好成績であることが書き並べてあったが、実際の写真は光学理論の示す通りコマが大きく、焦点距離を1mまたはそれ以上にするときは、5cm四方ほどの写野も難しいことは明らかに思えた。すでにこの点は、リッチーも指摘していたことであった。またN氏(中村要氏)が力づくともいうべき方法で、寸法比だけで研磨されたクック・トリプレットの失敗例とともに、これらの事実はわたしに光学理論の尊重を痛感させてくれた貴重な先例であった。」
天才光学研究者シュミットが、シュミット・カメラを開発したのが1930年。もし、シュミットの開発がすぐ世界に広まり、中村要氏にも届いていたら。(中村要氏が逝去したのが1932年)
歴史にもしはありませんが、中村要氏の光学理論に対する理解力と卓越した技術が、シュミット・カメラ研究や製作にも注がれていたら。もしそうだったら、日本の天文学にどれほど貢献していたことか。廣瀬氏の衝撃的な言葉が、ずんと私に重くのしかかりました。
(参考文献)
廣瀬秀雄,シュミット・カメラ,河出書房,1947
小川茂男,天体写真NOW No.4,誠文堂新光社,1978,P60-61
斉田博,宇宙の挑戦者,河出書房新社,1982
コマ収差,Wikipedia,閲覧日2020.8.8
仙花紙,Wikipedia,閲覧日2020.8.8
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2020.08.10 12:30
2020.08.10 09:31