2018.05.19 02:39改發天文台 1,4枚目の写真は、神戸市須磨区にあった、改發(かいほつ)氏のために中村要氏が設計した15cm屈折赤道儀です。改發氏は、アマチュア天文家、特に天体写真の第一人者として活躍した人物です。対物レンズ研磨は中村要氏、機械部は西村製作所が製造しました。国産の15cm屈折望遠鏡としては、初めてのものになります。運転時計も西村製作所が作製した、米ブラッシャー改良型です。対物レンズは、ガラス材の発注、加工等も全て中村要氏が行いました。中村要氏にとっても大型のレンズ加工は初めての経験でした。射場天文台の19cm対物レンズと同じく、第4面が平面という独特な形状をとっていることが特徴です。対物レンズの製作には、約50時間かかったそうです。価格は2800円(現在の貨幣価値...
2018.05.14 07:43西村製作所の創業 京都にある望遠鏡製造メーカー、西村製作所の創業は、1926年(大正15)です。西村製作所は、京都帝国大学近くで操業していた、理化学機器製造工場でした。その工場に中村要氏が自ら研磨した鏡を持ち込み、鏡筒と架台の製作を依頼したのが、望遠鏡製造メーカーとしての始まりです。中村要氏22歳、西村新一郎氏20歳、西村繁次郎氏17歳の時でした。独特なネコ脚の三脚や経緯台の設計も、中村要氏によるものです。組み立てが完了した望遠鏡は、京都帝国大学宇宙物理学教室屋上に運ばれ、中村要氏が最終チェックを行い出荷されました。屋上で撮影された反射望遠鏡の写真も、中村要氏によるものです。中村要氏は、望遠鏡製造メーカー西村製作所の創業に大きく関わった存在でした。(1930年発行の西...
2018.05.13 09:10星を知り始めてから2(前回からの続きです。) 「後、昭和5年(1930)9月号の子供の科学付録の美しい二重星の絵葉書や望遠鏡の作り方の記事を見、急に望遠鏡を作りたくなり、子供の科学社代理部より3cm色消し対物レンズ、ラムスデンアイピース、サングラス等を求め、初めて天体望遠鏡を自作した。それで見た金星、月、星雲、星団等は、自作という誇りの下に満足できるものであった。土星環は思った程に見えないのに失望した。だが、環の存在だけは目のなれるにつれ認められ、少し気をよくした。また、朝2時頃起き出し、裏庭に下り、寒さに震えつつ東天より昇り出てきた四大衛星を引き連れ楕円形に見える巨惑星・木星を見た時、その喜び満足、またその壮観は今でも忘れられない。 花山天文台も公開の度ごとに後7,8回...
2018.05.12 00:55星を知り始めてから1 中村要氏は晩年、目の不調をきたしたと言われています。極度の乱視、失明の危険性等様々なことが言われています。晩年(亡くなったのは1932年(昭和7)9月24日)の中村要氏の姿や、当時の花山天文台での観測・観望の様子をお伝えするために、高井宏典氏の「星を知り始めてから」を2回に亘って掲載したいと思います。「星を知り始めてから」 京都 高井博典 小学5,6年の頃、学校の帰途吉田(京都)帝国大学の横を2人話しつつ...
2018.05.05 01:12花山の夜を語る2 1枚目の写真は、西村繁次郎氏(株式会社西村製作所初代代表取締役)が花山天文台10インチブラッシャー反射赤道儀で撮影した、こと座環状星雲M57です。撮影されたのは、1933年(昭和8)7月29日で、露出は1時間。まさに、本文の内容と合致します。2枚目の写真も、西村繁次郎氏が、花山天文台で撮影した星野写真(撮影日等は不明)です。西村繁次郎氏は、花山天文台の旧職員でもあったので、n氏は、西村繁次郎氏なのかもしれません。(いずれも伊達英太郎氏天文写真帖第2巻より) 花山の夜を語る2 KKON生a:最高何倍に見える?n:さあ、それはシーイングによって色々でしょう。最高倍率も使用できようし、またダメな日もあります。口径が大きくなると...
2018.05.04 01:10花山の夜を語る1 天文同好会(現在の東亜天文学会)の大阪南支部長であった伊達英太郎氏は、1931年(昭和6)に「天文研究会」を再結成し、会誌「THE Milky Way」を発行しています。 伊達氏が「天文研究会」の顧問に依頼したのが、中村要氏でした。伊達氏より7~8歳年長の中村要氏は、伊達氏にとって敬愛する存在だったようです。その中村要氏の逝去は、伊達氏にとっても、痛嘆の極みであったでしょう。 これから2回に分けてお送りする「花山の夜を語る」は、「THE Milky Way」第4号に掲載された、実話か空想か分からない内容の物語です。発行は1933年(昭和8)10月5日で、中村要氏の逝去から丁度1年が経っています。 文中に出てくるn氏は、中村要氏を彷彿とさせる人物です。...