「セイテン ノゾミ タツセリ キベ」
木辺成麿氏と伊達英太郎氏は、同い年(1912年)ということもあり、とても親しい間柄だったようです。また、木辺成麿氏は、中村要氏の後任として、天文同好会大阪南支部(伊達英太郎氏主宰)の顧問になっています。
上は、木辺成麿氏から伊達英太郎氏に送られた、日食観測成功の電報です。
木辺氏は、伊達氏に旅先から次々と便りを出しました。
第一信は、福井あたりからです。白山、立山等のことが書かれています。木辺氏の30cm鏡が、大工の不注意で破損したことが書かれています。
第二信は函館に近づいた、青函連絡船(津軽丸)の船内で書かれています。寒くて服を着込んだこと、5年前の1931年に青函連絡船に乗船した時は、船中で写真を撮ったため、刑事に捕まりそうになったというエピソードが書かれています。
第三信は、札幌・平生(ひらふ)辺りからです。駅名が面白く、「食品名や化物」のような感じと記されています。また、出発までが忙しかったので、道中は食っては寝るの日々だから「ツカレヤシマヘン」とユーモラスな京都弁で綴られています。
第四信は、中頓別に到着したことを告げるものです。札幌から旭川まで、「ケッタイ」な駅名が続いていたこと、乗り込んだ一両だけの客車にはストーブが焚かれ、貨車が二十輌も連結されていたことが書かれています。たくさんの名士の出迎えの中、「威風堂々たる我輩、御着遊ばされた次第」とユーモアたっぷりの書きぶりで結ばれています。
第五信は、中頓別到着後3日間の準備状況の報告です。快晴が続き、暑い(気温25度)ぐらいであること、しかし、山には雪が残っていて変な感じということが書かれています。
この後の便りは保管されていません。いよいよ、観測準備が佳境に入ったのでしょう。そしてついに、「セイテン ノゾミ タツセリ キベ」の電報が伊達氏に送られました。
(資料は全て伊達英太郎氏天文収集帖より)
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2020.09.13 22:19
2020.09.13 13:08