第3回合同ハイキング[草場 修氏(2)]

 1936年(昭和11)東亞天文協会本部・京都支部・大阪支部・京星会・大阪天文研究会「第3回合同ハイキング」をご紹介します。

 京星会は、会員同士の親睦を大切にしており、このようなハイキングを度々実施していたユニークな団体でした。

 ハイキングの概要は、以下の通りです。

「一般歓迎 

1.集合日時・場所 1936年(昭和11)4月19日(日)9時まで 天六新京阪前

1.行程 冨田町下車→京大阿武山地震観測所見学→霊?仙寺→摂津耶馬溪→北山?→高槻町下車  徒歩約8Km

 1.費用 60銭 

1.昼食持参

 1.当日雨天なれば26日(日)延期 の案内」

 東亞天文協会大阪支部速報に掲載されたハイキングの案内です。

 東亞天文協会大阪支部報(1936年3月26日発行)に掲載されたハイキングの案内です。

 後列中央、佐々(さっさ)憲三助教授(佐々式大震計の考案者、第二代所長)の前が伊達英太郎氏、佐々助教授の左が草場修氏です。

 前列中央が、草場修氏です。

 上の写真は、百済教猷(くだらきょうゆう,1894-1964)氏です。百済氏は、天文同好会の創設者の一人です。専攻は天体力学。大阪の生まれで、隠世的・無欲な人柄は有名でした。大阪大空襲で貴重な図書・ノートを失いましたが、講義録を頭の中で再構成する程の記憶力を備えていたといわれます。1959~1964にかけて、東亜天文学会会長を務めました。

(「草場 修氏」の記事に、「瀬戸黄道光観測所 回報」を掲載しました。草場氏の手書きの文字が見られます。ぜひご覧ください。)

(参考文献)

天文学人名辞典,中山茂,恒星社厚生閣,1983

朝日新聞夕刊,朝日新聞大阪本社,2023/3/20

東亞天文協会大阪支部報(1936年3月26日発行)

(写真は伊達英太郎氏天文写真帖より)

阿武山観測所

阿武山観測所Abuyama Observatory 阿武山観測所は,大阪府高槻市の北方,標高281mの阿武山山頂から南へのびる尾根の突端頂部,通称 美人山の山頂付近にあります。美人山の標高は218m,山麓を有馬-高槻断層帯に境され,隆起した北摂 山地の南端に位置し,天然の展望台となっています。塔の屋上はもちろん,本館の2階以上からも,大阪 平野を一望することができます。晴れた日には淡路島や関西国際空港までも遠望でき,夜となれば,眺望 は地の果てまで続くような無数の光の海に変わります。六甲山からの夜景は1000万ドルと良く言われます が,阿武山はそれ以上ではないかと思います。  眺望の良さは古代から有名だったようで,美人山の山頂には,阿武山古墳が存在します。この古墳は, 初代所長志田 順が,地震計用のトンネルを掘削しているとき(1934年)に偶然発見したもので,石室から は漆塗りの棺に横たわった貴人(のミイラ)が現れました。 志田は,埋葬物について,当時としては最新技術である X線写真を撮っていました。しかし,「不敬」にあたると してその存在は内密にされ,1982年に観測所の物置の奥 からX線写真が再発見されるまで歴史に埋もれていまし た。再発見されたX線写真の解析により,貴人が頭を横 たえていた枕はガラス玉を銀の糸でつないで錦でくるん だ「玉枕」であること,衣は金糸の刺繍があったことから, 貴人の身分の高さが想像され,藤原鎌足ではないかと言 われています。1983年,文化庁により阿武山古墳として 史跡指定されました。  阿武山観測所は,1927年の北丹後地震(マグニチュー ド7.3,犠牲者約3,000人)の発生後,地震の研究を進める ため,1930年に設立されました。原奨学金の援助を受け, 地元からは約3万坪におよぶ用地を300年間の契約で借 用させていただいています。建物は,斜面であることを 生かし,2階建ての西館と3階建ての本館・東館を上下 および左右にずらす変化を与えています。2007年(平成 19年)に大阪府の近代化遺産総合調査報告書において,注目すべき近代化遺産として取り上げられており, 建物を目的とする訪問者も多数います。上記の報告書によると,西館と本館をつなぐ玄関ホールは建築全 体の要で,吹き抜けの内部にある2列の太い丸柱の上部は逆円錐台形になっており

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阿武山観測所バーチャル見学

ウィーヘルト地震計(写真右)1904年(明治34)年にドイツのエミル・ウィーヘルト(1861-1928)が作成した大型の機械式地震計で、重い倒立振子と振子のよけいな動きを抑える空気制振器を備え、巧妙な梃子の仕掛けを使うことで、それまでの地震計に比べてはるかに性能のよい物となった。この地震計によって地震波のP、S、L波がしきべつできるようになった。また地球の反対側からの地震波も捉えられるようになり、地球内部の大構造が明らかになった。倍率:上下動150倍、水平動170倍周期:上下動4.7秒、水平動10.0秒おもり:上下動1.3トン、水平動1.0トン 阿武山では1929(昭和4)年、観測所開設と同時に設置され、1991(平成3)年6月末まで稼働。佐々式大震計(写真左) 1934年(昭和9)年、低倍率・長周期地震計として、佐々憲三により設計設置される。錦地の大地震を記録するため開発された地震計で、感度が低いため地震が記録されることは年に数回であった。水平動のみで、倍率:1.1倍、周期:25秒。1943年鳥取地震およ び1948年福井地震の長周期波形は,金森博雄博士(カリフォルニア工科大学名誉教授,平成19年度京都賞受賞)の断層モデルによる解析(1972年)に使われ, 世界的に有名となった。1997(平成9)年12月末で観測を終了した。ガリチン地震計(写真右) ロシアのボリス・ガリチン(1862-1916)が作った地震計で、電磁式地震計としては最も古く、1890(明治23)年頃作成され、その後、ウィリップの改良したものとともに広く世界で使用された地震計である。この地震計は動線輪方式で、地動を出ん来てkに振動に変換し、これを高感度の電流計へ直接導いて光りrバー(長さ1m)によりプロマイド紙に光学記録された。周期:振子10〜20秒、電流計10〜20秒最大振動倍率:1000〜2000倍 阿武山では、1938(昭和13)年頃に設置され、1964(昭和39)年までの記録が保存されている。※本ページの解説は主に、阿武山勤務の技術職員、浅田照行氏(2009年定年退職)による 京大防災研究所技術室報告, 10, 1-10, 2008. を基にしています。観測所開設以来用いられてきた歴史的な地震計たちは,地震学の発展に大きな貢献をしてきました。現在はその役割を終え,本館・東館 地下の観測室に

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中村鏡とクック25cm望遠鏡

2016年3月、1943年製の15cm反射望遠鏡を購入しました。ミラーの裏面には、「Kaname Nakamura maker」のサインがありました。この日が、日本の反射鏡研磨の名人との出会いの日となりました。GFRP反射鏡筒として現代に蘇った夭折の天才の姿を、天体写真等でご紹介します。また、同時代に生きたキラ星のような天文家達を、同時期に製造されたクック25cm望遠鏡の話題と共にお送りします。

4コメント

  • 1000 / 1000

  • double_cluster

    2023.04.16 06:27

    ありがとうございます。新聞に阿武山観測所の記事がありましたので、若干手直しをしました。1935年(昭和10)10月の時点では、「京星」には草場氏の名前は見当たりませんでした。草場氏の登場は、この後だったのでしょうか。
  • manami.sh

    2023.04.15 23:04

    新装版ですねぇ。草場氏について、「京星」に何か記事がありましたでしょうか。
  • double_cluster

    2022.03.06 22:14

    ありがとうございます。manami.sh様がおっしゃるように、草場氏にポイントを絞って調べる必要がありそうですね。今回の草場氏?は、集合写真の真ん中に位置しています。重要な立場だったのかもしれませんね。