1932年(昭和7)10月7日発行の黄道光課通信(17)には、B4用紙5枚に亘って中村要氏の追悼文が掲載されました。すでにご紹介した文もありますが、ここでは全文を掲載します。
1920年(大正9)に発足した天文同好会にとって、中村要氏の逝去は大きな試練になりました。しかし、この事は、1938年の山本一清氏京大退官、そしてその後の東亞天文協会の混乱の端緒であったようにも思います。
(参考文献)
黄道光課通信(17),荒木健児,倉敷天文台,1932年10月7日
(資料は伊達英太郎天文蒐集帖3より)
1932年(昭和7)10月7日発行の黄道光課通信(17)には、B4用紙5枚に亘って中村要氏の追悼文が掲載されました。すでにご紹介した文もありますが、ここでは全文を掲載します。
1920年(大正9)に発足した天文同好会にとって、中村要氏の逝去は大きな試練になりました。しかし、この事は、1938年の山本一清氏京大退官、そしてその後の東亞天文協会の混乱の端緒であったようにも思います。
(参考文献)
黄道光課通信(17),荒木健児,倉敷天文台,1932年10月7日
(資料は伊達英太郎天文蒐集帖3より)
中村鏡とクック25cm望遠鏡
2016年3月、1943年製の15cm反射望遠鏡を購入しました。ミラーの裏面には、「Kaname Nakamura maker」のサインがありました。この日が、日本の反射鏡研磨の名人との出会いの日となりました。GFRP反射鏡筒として現代に蘇った夭折の天才の姿を、天体写真等でご紹介します。また、同時代に生きたキラ星のような天文家達を、同時期に製造されたクック25cm望遠鏡の話題と共にお送りします。
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