2022.04.20 05:40黄道光(2) 1932年(昭和7)10月7日発行の黄道光課通信(17)には、B4用紙5枚に亘って中村要氏の追悼文が掲載されました。すでにご紹介した文もありますが、ここでは全文を掲載します。 1920年(大正9)に発足した天文同好会にとって、中村要氏の逝去は大きな試練になりました。しかし、この事は、1938年の山本一清氏京大退官、そしてその後の東亞天文協会の混乱の端緒であったようにも思います。
2022.04.14 11:59黄道光(1) 古川龍城氏の「黄道光観測法」が「天界」に掲載されたのは1921年(大正10)のことです。古川氏は、すでに1911年(明治44)頃から、黄道光を観測していました。 黄道光は、天球上で太陽近傍を中心に黄道面(地球軌道面)に沿って観測される淡い光の帯のことです。黄道光は、よく晴れた春の夕方の西空や秋の早朝の東の空で観測しやすい天文現象です。黄道面付近には、彗星からの放出や小惑星同士の衝突で生成されたダストが漂っており、それらが太陽光を散乱させます。なお、太陽と正反対の方向で見られるものは対日照と呼ばれます。 天文同好会に、黄道光課が新設されたのは1927年(昭和2)、そして1931年(昭和6)から黄道光課長となったのが、荒木健児氏(1902-1980)です...
2020.04.04 07:48「天界」No.140(故中村要氏追悼号)その4追想 花山にて 島本一男 「中村氏は、本当に星を愛し、本当に天文が好きだった人であります。氏の特技がレンズ磨きであったことは周知のことです。けれども、氏のレンズ磨きは、レンズの完成が目的ではなくて、これによって星を見るためだと繰り返し言われた言葉に深い感銘があります。 氏は、自分の仕事におそろしく自信のある人でした。それは、涙ぐましいまでに努力することによって、自己の中にいささかの淋しさをも留めぬ心強さのある自信でした。氏の作られたミラーやレンズは、私の聞いた限り、一つ一つが傑作と人々から言われ、自らも「よくできたと喜んでいます。」と公言されるものでありました。本当に、字義通りに玉を磨く人であったのでしょう。 中村氏は、何と言っても大勉強家でありました...
2020.03.20 09:26「天界」No.140(故中村要氏追悼号)その2 東亜天文協会・天文同好会発行「天界」1932年(昭和7)12月号(故中村要氏追悼号)を、ゆっくり読み返しました。投稿された追悼文を読み進む内に、中村要氏の業績や人柄がより一層分かるようになりました。特に、身近で生活を共にした方々の文章は胸に迫ります。中村要氏の天才性、日本の天文学界に残した業績の大きさが、より一層感じ取れました。 今回は、以前このブログでご紹介した、「憧れの花山を訪う」の北村重雄氏です。「憧れの花山を訪う」が「天界」に掲載されたのは、1932年(昭和7)9月号でした。「天界」9月号で、喜びを爆発させた北村氏でしたが、そのわずか3カ月後に、今度は痛切な思いを吐露することになってしまいました。 「中村要先生と私」 ...
2020.03.16 08:24「天界」No.140(故中村要氏追悼号)その1 「天界」No.140(1932年12月号)は、故中村要氏の追悼号(約100ページ)となりました。11月号で、原稿募集と特別号発行に伴う寄付が急告されました。短期間でしたが、追悼号に掲載された原稿は約30、弔辞は26にのぼりました。また、寄付金は約135円(現在の貨幣価値で、38〜54万円)が寄せられました。 今回は、大橋登潮氏の原稿をご紹介します。 大橋氏は、中村要氏と6年間、大学や花山天文台で幾度も会った人物です。 「中村さんと宮本君」(大橋登潮) 『宮本君ほど中村さんを尊敬していた人はないと思います。中村さんの碩学に、そしてその優しい人格に、寂しい少サイエンティストは尊敬を通り越して、中村崇信者になっておりました。宮本君がいかに中村さんを慕ってい...