苦難のあゆみ
この写真は、1970年(昭和45)頃の倉敷天文台です。
民衆のために設立された民間初の天文台が、民衆へ門戸を閉ざさざるを得なくなった歴史を紐解きたいと思います。
荒木健児氏の在籍期間:1931年(昭和6)4月〜1935年(昭和10)
中村要氏の逝去:1932年(昭和7)9月
小山秋雄氏の在籍期間:1935年(昭和10)3月〜1938年8月
(小山氏は荒木氏の後任です。1938年(昭和13)8月、ご家族との海水浴で事故死されました。)
岡林滋樹氏の在籍期間:1939年2月〜1941年3月
着任にあたっての岡林氏の文章が残されています。
「遂々(ついつい)倉敷へやって参りました。本当に「遂々」という感じがいたします。昨年末(1938年)に、先生(山本一清氏)よりこのお話がありまして、私は両親はもとより親戚知友にも相談し、又自分も再三熟考致しまして決心、いよいよ2月26日当倉敷天文台に来任したのであります。その間の、先生並びに諸先輩の一方ならぬお盡力と、お骨折りを、今ここに厚く御礼申し上げます。まだ着任早々で、何もわかりません。種々の雑務や整理に追われて居ります。この雑務整理が終わって、観測を始め様と思います。(後略)2月27日 倉敷にて 岡林滋樹」(「天界」第216號より引用)
岡林氏は、翌1940年(昭和15)10月1日、しし座に新彗星(岡林・本田彗星1940e)を発見しました。
岡林氏は倉敷天文台を辞して後、花山天文台・阿蘇地震研究所を経、京都大学物理学教室スマトラ派遣隊(地質調査)の一員となりました。そして現地調査を行った帰途、1945年4月1日に阿波丸と共に帰らぬ人となりました。
水野千里氏逝去:1941年(昭和16)
本田實氏:1941年(昭和16)4月着任、7月召集
(残念ながら、宮原節氏の消息は不明です。)
主事や台員が不在になった1942年(昭和17)、水路部(海軍所属)が、カルバー32cm反射赤道儀を接収します。戦時中、航海暦作成のために、星食観測が不可欠だったからです。原澄治名誉台長は、時節柄、同意せざるを得なかったのでしょう。
戦後も水路部は、運輸省や海上保安庁と管轄を変え、存続しました。
1946年(昭和21)に復員した本田實氏は、彗星を12個、新星を11個発見し、倉敷天文台を支えました。
カルバー32cm反射望遠鏡の鏡面のみが倉敷水路観測所から返還されたのが1966年(昭和41)、鏡筒や赤道儀が返還されたのは1976年(昭和51)でした。原澄治氏が逝去されてから、8年後のことです。
倉敷水路観測所が廃止された1983年(昭和58)、倉敷天文台に敷地や施設が返還されました。
(引用)
日本の天文台,月刊天文ガイド編,誠文堂新光社,1972
倉敷通信,岡林滋樹,天界,1939,4(216):182,東亞天文協会
(参考文献)
日本アマチュア天文史,日本アマチュア天文史編纂会,恒星社厚生閣,1987
倉敷天文台のあゆみ~大正・昭和・平成そして未来へと~,公益財団法人倉敷天文台
水路部における天文観測について,海洋情報部研究報告 第58号,令和2年3月19日
2コメント
2022.07.20 04:29
2022.07.18 12:15