1940年(昭和15)9月の太陽黒点写真

 伊達資料の「天界」は、第234號が最後です。従って、太陽課の9月のデータを掲載することはできませんでした。第234號は、昭和15年十,十一,十二月合併号となっています。

(引用)

太陽面の活動状況について,本田實,1940,10~12(234):370,東亞天文協会

(太陽黒点写真乾板は、伊達英太郎氏撮影。)

中村鏡とクック25cm望遠鏡

2016年3月、1943年製の15cm反射望遠鏡を購入しました。ミラーの裏面には、「Kaname Nakamura maker」のサインがありました。この日が、日本の反射鏡研磨の名人との出会いの日となりました。GFRP反射鏡筒として現代に蘇った夭折の天才の姿を、天体写真等でご紹介します。また、同時代に生きたキラ星のような天文家達を、同時期に製造されたクック25cm望遠鏡の話題と共にお送りします。

2コメント

  • 1000 / 1000

  • double_cluster

    2022.08.10 04:41

    貴重なコメントをいつもありがとうございます。伊達英太郎氏資料と「天界」が連動する時、パズルのようにいろいろな謎が解けていきますね。お教えいただいてから、伊達資料の「天界」同一箇所を読みました。明星商業は英語やフランス語教育も重視していたようで、伊達氏の語学に対する造詣の深さにも納得が行きます。また、1943年ごろの伊達英太郎氏天文写真帖や乾板写真に、76mm屈折(木辺氏研磨)が登場する謎も解けました。後進の指導に熱心な伊達英太郎氏でしたから、「SHIROGANE号」として大切に使用していた反射望遠鏡を寄贈することに躊躇はなかったんでしょうね。明星商業と長崎海星商業は姉妹校です。「また会う日まで」に、長崎海星が出て来たように記憶しているのですが・・・。
  • manami.sh

    2022.08.09 12:33

    天候不順の日々が続き、夏らしくないようにも思えます。 「天界」1938年5月(205号)に「明星商業学校天文部について」という一文が載っています。著者は伊達英太郎氏で明星商業学校の天文部が伊達氏の許を訪れた時期と符合します。明星商業学校は、伊達氏の母校とのことです。ただ、天文部は出来てからやっと1年とのことです。前橋氏が太陽観測に使用していたのは25mm屈折はシングルレンズの五藤式乙号屈折のようです。また、伊達氏がこれまで使用していた11cm反射は母校の天文部に使ってもらっている旨も記されています。写真を見ると皆さん楽しそうです。昭和14年の太陽観測報告に出てくる千葉武志氏は、水沢の緯度観測所に大正10年3月19日から昭和16年4月4日まで勤務されていた方です。独立して彗星を発見をした山崎氏の勤務期間と重なります。