伊達氏の太陽観測(まとめ)

 保管されていた伊達氏の太陽黒点写真は、1948年(昭和23)が最後でした。伊達氏が亡くなられたのが、1953年(昭和28)8月ですから、体調悪化が理由と推察されます。

 今回は、太陽観測に関する写真(データ不明など)をご紹介します。

 

 太陽観測者としての伊達英太郎氏の業績は、後世に伝えられるべきものと思います。

(写真は伊達英太郎氏撮影)

中村鏡とクック25cm望遠鏡

2016年3月、1943年製の15cm反射望遠鏡を購入しました。ミラーの裏面には、「Kaname Nakamura maker」のサインがありました。この日が、日本の反射鏡研磨の名人との出会いの日となりました。GFRP反射鏡筒として現代に蘇った夭折の天才の姿を、天体写真等でご紹介します。また、同時代に生きたキラ星のような天文家達を、同時期に製造されたクック25cm望遠鏡の話題と共にお送りします。

2コメント

  • 1000 / 1000

  • double_cluster

    2022.08.24 00:05

    コメントをありがとうございます。今年の夏は異常気象ということで、夜も曇天が多かったですね。今週末ぐらいから気温が下がりそうで、少しホッとしています。お変わりありませんか。 https://www.kwasan.kyoto-u.ac.jp/~cmo/cmo/376/CMO376_TMt.htmによると、1946年頃には、伊達氏との面会時間は医師により短く制限されていたようです。それでも1948年の太陽写真乾板はきちんと整理され、体力を振り絞って観測された様子が伝わってきます。天文愛好家としての伊達氏は、本当に敬服に値する方ですね。
  • manami.sh

    2022.08.23 15:12

    佐伯恒夫氏は1948年の火星観測の報告(「天界」)の中で、木辺氏、伊達氏、前田氏は病床に臥していた旨を記しています。その後、木辺氏は観測にカムバックし、前田氏は京都療養所を退院しますが、療養生活が続いていたようです。伊達氏の1948年の火星観測は無いようですし、木星観測は1945年までのようです。太陽黒点観測は、断続的に続けられていたということでしょうか。既に火星観測については佐伯恒夫氏に木星観測については村山定男氏にそれぞれを遊星面課の班長に任じていますし、月面課については1950年初頭に小島修介氏を幹事に任じています。一番長く行ったのは太陽黒点観測だったのでしょうか。