天文同好会では、早い時期から黄道光の観測を行っていました。黄道光課が設けられ、荒木健児氏(倉敷天文台、1902-1980)が稲葉氏の後に課長となりました。中村要氏も、顧問の一人として迎えられています。荒木氏は、課長となった翌年に、中村要氏の訃報に接したことになります。以下は、黄道光課通信(16)に荒木氏が寄せた文章です。
「黄道光課通信」(16)1932.9.28 倉敷天文台 荒木 健児
哀悼 中村顧問
我らの黄道光課顧問中村要先生は、去る24日突如として死去された。25日の大阪の新聞の報道によって驚かされた私は、今や言うべき言葉を知らない。静かに近い過去を顧みると、むやみと涙を誘うものがある。実に最大の悲しさである。
私は25日朝、山本先生宛弔電を発した。原名誉台長も大いに嘆かれ、同様に弔電を発せられたことである。
以前からの課員諸君には分かっていることであるが、去年3月私が黄道光課長としての職務を行うようになって、この課通信を試みたのであるが、3月21日付の課通信第1号で、課の「顧問」として山本、稲葉、小山、三澤の諸先生と共に推戴して、今日に及んでいるのである。
天文同好会にかなり早くから関係している私が、中村氏に初めて会ったのは、去年4月花山を訪れた時である。その時、氏はクロノメーターの修理で大変忙しくしておられたが、ガラスの研磨や小遊星の検出などを自ら説明された。
花山で3度と、6月の神戸支部の例会と、この間の石山の黄道光会議と、都合5度会っている。
実に親切であった。天界に出される論文めいたものを見ていると、全く学者然たる人で、近づきにくいと思われる点がないでもないが、会ってみると決してそんなことはない。勿論どこまでも科学を愛する人であることには一点の誤りもないが、あのニコニコの温顔に接して何とも言えない親しさを感じたものである。
初めの頃、私は「中村君」と呼んで、全く友人扱いにしていた。本人に向かっても2度や3度は「中村君!」と呼んだことがあると思う。その後、段々氏の人格が分かってくるにつれて、とうとう一躍「中村先生」にしてしまった。「先生!」と呼びかけても、何ともなくなった。別に親しみが少なくなるということは勿論なかった。
天文学一般の問題について、殊に黄道光の観測上について、どれ程御教えを受けているかは、考えれば考える程、深いものがあり、指折り数えることさえ出来ない。先生の一言一言そのものが教えであった。而も、先生は教えてやろうと思って言われたものでないことはしばしばであった。とにかく表面的のみでなく、あくまで内容があり、自ら苦心の上体得されたこととて、実のあることのみであった。
注意深い人であったから、決して華々しい人ではなかった。全国的に多くの弟子を持っておられた。かの西村製作所との関係の如きは、いづれが本家か分からない程であった。
望遠鏡について先生のお世話になった人は、随分多いであろう。私も小さい屈折鏡を先生のお手を経て求めている。こうすると全く安心して使えるのである。経験によって得られた権威というものは、ありがたいものである。私達は何か1つのことでもマスターしたいものである。
2度目に花山へ行った時、先生から黄道光に関する論文がこれこれの雑誌に出ているから見ておいてくれと言われた。(当時の課通信でお知らせしたことと思う)その1つが全文を訳出しようと考えているスペクトルの問題である。
石山の黄道光会議に出席した諸君は、先生の天体観測上の深い経験に驚かれたことと思う。あの時の決議事項をご覧ください。中村先生の偉大さを物語る空気が満ち溢れている。ちょっと宙をにらんでいらしたかと思うと、大切な議題をさっと出されるところ、あの会議がもっと長時間続いていたらどんなであろうかと思わせた。
山田君であったか、同じ目的のために働いている人が集まることは面白いと言ったが、黄道光会議の成功は中村先生に負うところが多い。私は全く素人で、課長として出席して、報告して更に承っただけにすぎません。
課員中で、先生に会ったことのない人は恐らく半数以上であろう。原田、塩見両君は一夏を志願助手として、中村先生と面白く暮らされたことがある。最近には亀井君が花山で起居を共にせられた。先生が重い神経衰弱で、郷里にあって療養中と亀井君から承り、ハガキ急報は8月22日第17号で新彗星発見を知らせていただいたのを最後として、終にこの悲報となったのである。
山田、廣瀬両君は石山で初めて先生に会って、永遠の別れとなってしまったわけ。会議に集まるべくして来られなかった下保、佐野両君には深い恨みと思っている。
とにかく博士以上に偉い人であった。小遊星や彗星というむしろ地味な仕事に向かわれたのも、その真面目さが伺われる。30年に満たないご一生を直接間接種々の御訓を受けている私達は、その感想のままをお互いに通じ合って、中村先生を偲んでみたいと思う。天文を愛する私達、殊に黄道光に向かって進んでいる私達の間に、この種の計画あるのは無益ではないと思う。」
本田実氏が、「1932年9月24日中村要氏が急に逝去された。このことがその翌日の新聞に報道された時の驚きを、今もまざまざと覚えている。私はついに一度もお目にかかる機会を得なかったが、最も崇敬する天文観測者としての氏とあの新聞記事に打たれた驚きを、今もそのままに持ち続けている。」と述べています。(日本アマチュア天文史、恒星社厚生閣、P.153-154)
中村要氏の逝去が、当時の天文愛好家にとってどれほどの痛打となったか、私にもよく分かる気がします。
(1枚目:若山富夫氏撮影の黄道光写真、2枚目:瀬戸黄道光観測所、草場氏撮影、いずれも、伊達英太郎氏天文写真帖より)
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