「望遠鏡の製作」
山から帰った石岡繁雄氏は、反射望遠鏡の製作に取り掛かります。上は、石岡氏の望遠鏡の設計図です。形式は、当時としては珍しいフォーク式赤道儀(モーター追尾式)でした。フォーク式にしたのは、モーター部が足元にあるため、観測しやすいように接眼部の高さを上げる必要があったためでしょう。
まずは、13cm反射鏡の研磨です。その時の様子(石岡あづみ様の聞き書き)を引用します。
「まず、父は二冊の本を購入した。『天体望遠鏡の作り方と観測法』誠文堂新光社発行木邊成麿著・『天体望遠鏡と顕微鏡の作り方』誠文堂新光社発行鈴木義之著。そして作業に取り掛かった。最初は、反射鏡作りからである。温度や湿度などで伸び縮みの少ない特殊な厚いガラスを購入して、それを二枚合わせにして、下のガラスを土台として、研磨剤を入れひたすらこすり合わせて表面を削る。もちろんただ削れば良いと言うことでは無くて、均一に凹になるように回転させながら削る。これには回転テ-ブルを作って、その上に台ガラスを固定して、弟達と円陣を組むようにして、順番にテ-ブルの周りを廻りながら削った。目が廻ったり、疲れたりしたら直ぐに交代するのである。磨きの段階でも、同じようにひたすら廻った。少し窪みができると、焦点距離を調べる。また廻る。。。半年後、やっと反射鏡が完成した。」
(引用:石岡繁雄の一生HP,「綺羅星の章」)
石岡氏が望遠鏡作りに取り掛かったのは、1936年(昭和11)でした。そして、半年かけて反射鏡は完成しました。上は、完成した13cm鏡筒を覗く若山五朗氏(左)と若山富夫氏(右)
石岡氏は、フォノモーター(レコードプレーヤーのモーター)を赤道儀の動力としました。モーターの振動を赤道儀に伝えないために、モーターと赤道儀を分離し、ベルトで接続しました。ギヤの入手は、困難を極めたようです。その時の様子を、石岡あづみ様の聞き書きから引用します。
「次に望遠鏡を地球の自転に合わせて動くようにするための歯車の調達にかかった。ある程度の物は木で作ったが、どうしても金属でなければならない部分もあった。
八高の辺りからバスに乗って、窓から見える<歯車>の文字の看板を目を凝らして探す訳だ。看板が見つかると、次のバス停で飛び降りて、その工場を探す。それで、その工場の主任さんに『歯車を作ってください』とひたすらお願いするんだ。
当時、第二次世界大戦が始まったばかりで、どこの機械工場も軍の仕事で大忙しだった。
たいてい、『なにぃ!望遠鏡の材料!?』と呆れかえられて、『戦時下だと言うのに何を呑気なこと言っとるんだ、この学生は!』と怒鳴られてお終いだったんだが、ある小さな工場でやっと引き受けてもらえることになった。もちろん歯車の図面は、わしが書いて持って行って、寸分違わぬ物を作ってもらうのだが、わしが見ている前では、一生懸命作ってくれるのだが、『じぁ、お願いします』と言って帰ると、待てど暮らせど出来上がったと言う知らせが無い。覗きに行ってみると、他の仕事をしていて、前に見に行った時のままだ。仕方が無いので、出来上がるまで、ず-っとついて見ていた。その工場には何日通ったか忘れてしまったが、1日や2日でないことだけは確かだよ。と父は語った。」
(引用:石岡繁雄の一生HP,「綺羅星の章」)
石岡氏の観測所の完成度が高いことは、弟たちの努力の賜物でもありました。
「父が歯車の調達に駆け回っている間、弟達3人には使命を与えた。それぞれ大工・左官・木工の職人の所へ修行に出し、技術を習得させた。望遠鏡を配置するための小屋を建てるためだ。小屋は自宅裏の畑の真ん中にコンクリ-トをこねて土台を作り、赤道儀とド-ムを設計して木で作り建てた。」
(石岡あづみ様の聞き書き)(引用:石岡繁雄の一生HP,「綺羅星の章」)
このようにして、石岡氏の観測所は1941年(昭和16)完成しました。しかし、次男の若山國男氏は、完成を待たず、結核のため1940年(昭和15)8月17日に亡くなりました。
(出典)
石岡繁雄の一生HP,「綺羅星の章」
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