「断ち切られた思い」
石岡繁雄氏は、1942年(昭和17)9月、名古屋帝国大学を繰上卒業し、同年10月応召され海軍に入隊します。望遠鏡が完成してから約1年後のことです。繁雄氏が不在の間は、弟の若山富夫氏や英太(つねた)氏が観測や撮影を続けました。しかし、その後、突然終わりがやって来ます。
「さらにスペクトル写真にうつる準備をしていたとき、父と叔父達は次々と兵隊にとられ、望遠鏡を動かす者がいなくなってしまった。
『昭和17年にわし(石岡繁雄氏)が海軍に入り、中国大陸の青島で訓練を受けていた時、弟のつねさ(若山英太氏)から新聞の切り抜きを送ってきた。当時“敵味方不明機一機、上空を飛行中”というラジオ放送がよくあったが、それを中学生だったつねさが望遠鏡を使って写真を撮り、B24であることを確かめたというものだった。軍は、敵機を発見するため、ということで、望遠鏡を押収した。父の望遠鏡は、もぎ取られてしまい、二度と帰って来ることはなかった。』(石岡あづみ様の聞き書き、上の写真は1945年1月3日に愛知県津島警察から望遠鏡寄贈の礼として贈られた感謝状、若山繁二氏は繁雄氏の父)
素人が操作するには高機能すぎた望遠鏡。当然活用できないまま、軍はお蔵入りしてしまったことでしょう。
石岡繁雄氏とご兄弟の天文に対する思いは、戦争により無惨にも断ち切られてしまいました。しかし、星を愛する思いは、戦後も連綿として抱き続けられたようです。
画期的なアマチュア天文家(達)。石岡繁雄氏とご兄弟を、しっかりと記憶に留めたいと思います。
(出典)
石岡繁雄の一生HP「綺羅星の章」
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