伊達英太郎氏が主宰していた天文研究会は、東亜天文協会大阪支部と名を変え、新装された大阪市立電気科学館を本部として活動を始めました。
大阪市立電気科学館は、1937年(昭和12)3月13日にオープンし、1989年(平成元)5月に閉館するまでの52年間、「四ツ橋の電気科学館」「四ツ橋のプラネタリウム」として大阪市民に親しまれました。その大阪市立電気科学館が、開館するに伴い導入したのが天象儀(プラネタリウム)です。
現代の日本には数多くのプラネタリウムがありますが、大阪市立電気科学館が開館した当時、日本には1台もプラネタリウムはありませんでした。
当時のプラネタリウムは、ドイツのカールツァイス社の専売品でした。カールツァイス社が大阪市に提示した金額は、323000マルク。邦貨では468000円。それに運賃・保険料・技師派遣費等でさらに30000円が絶対必要とのことでした。少しでも購入価格を引き下げようと、大阪駐在ドイツ総領事への政治的な働きかけや、海軍省からドイツ政府やカールツァイス社への働きかけ等がなされました。しかし、カールツァイス社は、頑として値下げ交渉に応じませんでした。そこで致し方なく、大阪市はカールツァイス社の提示額を受け入れ、様々な折衝の結果、邦貨480000円を支払うことになりました。昭和13年頃の100円は、現在の150000〜200000円に相当します。邦貨480000円は現在の7億2000万〜9億6000万円という途方もない金額になります。
一見頑なに見えるツァイス社の姿勢ですが、それはツァイス社の商売の原則に従ったものでした。
「抜け目のなさではなく、信頼できること、および公正なこと。商品の投げ売りではなく、定価で販売すること。顧客に専門的に教えることおよびサービスすること。一様な品質でサービスすることを顧客に保証すること。」
エルンスト・アッべが定めたこの原則を貫いたおかげで、ツァイス社は、ナチスの支配・ドイツの敗戦・東西ドイツによる分断・それに伴うツァイス社の分裂等を乗り越えて、世界的企業として現在も存続し続けているのだと思います。
この写真は、電気科学館プラネタリウムドーム内での組み立て中の様子です。
左がランゲ技師(ドイツ・カールツァイス派遣技師)、右が山本一清氏(山本一清氏は、プラネタリウム導入・解説等に深く関わりました。)
ヘルスゲン氏(カールツァイス東京支社技師)とランゲ氏のサイン入りプラネタリウム完成写真。
(参考文献)
電気科学館二十年史,大阪市立電気科学館,1957
日本アマチュア天文史,日本アマチュア天文史編纂会,恒星社厚生閣,1987
(写真は伊達英太郎氏天文写真帖、新聞記事は伊達英太郎氏天文蒐集帖より)
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