宮原 節氏(第六高等学校教授)の上斜里での観測
宮原 節(みさお、1895~1947)氏は広島県出身。1920年に京都帝国大学理学部を卒業しました。同年、第六高等学校(岡山)の物理学教授となりました[1]。山本一清氏が1915年4月に京都帝大講師、1918年10月に京都帝大助教授となっていますから、山本一清氏は宮原氏の恩師になります。
上は宮原氏の京都帝大の卒業証書の写しです。学科名は記入されていません。
1897年6月に京都帝国大学は創設されました。その後1897年9月に理工科大学が開設され、1898年6月に数学科・物理学科・純正化学科(化学科)が設置されました。1914年7月、理工科大学が分けられ、理科大学、工科大学となりました。そして、1919年2月に理科大学は理学部となりました。宮原氏が在学していた頃は、京都帝大理学部の変革期であったわけです。宮原氏の卒業後、1921年4月に宇宙物理学科・地球物理学科・動物学科・植物学科が設置されました[2]。
宮原氏が観測に行った上斜里には外国からの観測隊が多数訪れていました。宮原氏は1927年から1929年にかけて文部省の命により、イギリス・ドイツ・アメリカに留学していました。その間、宮原氏は留学先だけではなく、フランス・オーストリア・スイス・オランダ・イタリア・エジプト・スウェーデン各地の天文台を訪れました[1]。宮原氏の上斜里訪問は、旧知の方々との再会が目的だったかもしれません。
当時の上斜里の町の様子です。(宮原氏撮影)
簡素な作りの商店の様子が分かります。(宮原氏撮影)
イギリス観測隊の様子です。観測小屋が3棟とシーロスタットが見えます。(宮原氏撮影)
斜里では、水路部(海軍、塚本裕四郎班、接触時刻測定)、東京天文台(服部忠彦、スリット分光器によるコロナの分光観測)、東大物理学教室(田中務班、コロナスペクトルの撮影)が観測を行いました。斜里丘では理研(仁科芳雄班、宇宙線)が観測を行いました。
上斜里には、イギリス・ケンブリッジ隊(ストラトン教授、レドマン博士)、インド・コダイカナル隊(ロイヅ博士、マルソン)、アメリカ隊(サッカレイ、バグナルド少佐)、オーストラリア隊(アレン博士)が来ました。外国からの観測隊について、京都帝大教授の上田穰が次のように述べています。
「学界ではこの日食に備えて昭和9年5月25日、日食準備委員会を設け、観測者相互の連絡をはかり、最大の成果を得ることを企図した。又英文の案内書を出版して外人観測者に便宜を計ったが、その中に各地の気象状況を掲げてあった内、上斜里という場所が一番よい天候を期待されたので、外人部隊にその地を譲ったところ、皮肉にも日食当日、上斜里が天候悪くて甚だ気の毒なことになった[3]」
美幌午後3時 海岸方面から来る白雲(宮原氏撮影)
上2枚 皆既前6分間位の時の雲(宮原氏撮影)
上2枚 雲の中のコロナ(宮原氏撮影)
(参考文献)
[1]---宮原 節氏のお孫さまによる談
[2]---京都大学 理学研究科・理学部,研究科・学部について,沿革
https://sci.kyoto-u.ac.jp/ja/about/history (最終アクセス2025/08/11)
[3]---上田穰(1948)『日食敍説』,富書店:150-153
(写真や資料は宮原 節氏のお孫さまにご提供いただきました)
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2025.08.11 23:33
2025.08.11 12:03