「天界」No.140(1932年12月号)は、故中村要氏の追悼号(約100ページ)となりました。11月号で、原稿募集と特別号発行に伴う寄付が急告されました。短期間でしたが、追悼号に掲載された原稿は約30、弔辞は26にのぼりました。また、寄付金は約135円(現在の貨幣価値で、38〜54万円)が寄せられました。
今回は、大橋登潮氏の原稿をご紹介します。
大橋氏は、中村要氏と6年間、大学や花山天文台で幾度も会った人物です。
「中村さんと宮本君」(大橋登潮)
『宮本君ほど中村さんを尊敬していた人はないと思います。中村さんの碩学に、そしてその優しい人格に、寂しい少サイエンティストは尊敬を通り越して、中村崇信者になっておりました。宮本君がいかに中村さんを慕っていたかは私宛の近信でもわかります。
「-----僕は中村先生が亡くなられてから、どうしても気が進みません。先生が生きておられた時は別に先生の事を考えるでもなし、ただ尊敬していただけです。けれども亡くなられた今は、僕ははっきり申しますが、他の誰よりも先生に対して忠実です。毎日先生の事を思い出さない日とてはありません。今、僕の読みつつある本も、フランスの天文家フランマリオンの著書「死と神秘」です。僕は夜中に恐ろしいながらも、毎夜読み続けております。」
熱心な宮本君は、ほんとうに忠実な人であります。新聞で中村さんの亡くなられた記事を見た時、「しまった!宮本君も殺したか!」と非常に心配しましたが、宮本君からの手紙を見て、健在だった事を心から喜んだ事でした。そして宮本君に、「第二の中村さんに」、「地下の中村さんに喜ばれる人になれ」と励ましております。』
この宮本氏は、後に第3代花山天文台長になった、宮本正太郎氏です。宮本氏は、火星観測・月面観測の世界的権威でした。まさに、「第二の中村要」を生きられたのだと、私は思います。
(1枚目の写真は、中村要氏(昭和7年5月24 日、花山天文台30cm赤道儀室にて撮影)]
参考文献:天界No.140,東亜天文協会・天文同好会,1932.12月
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