東亜天文協会・天文同好会発行「天界」1932年(昭和7)12月号(故中村要氏追悼号)を、ゆっくり読み返しました。投稿された追悼文を読み進む内に、中村要氏の業績や人柄がより一層分かるようになりました。特に、身近で生活を共にした方々の文章は胸に迫ります。中村要氏の天才性、日本の天文学界に残した業績の大きさが、より一層感じ取れました。
今回は、以前このブログでご紹介した、「憧れの花山を訪う」の北村重雄氏です。「憧れの花山を訪う」が「天界」に掲載されたのは、1932年(昭和7)9月号でした。「天界」9月号で、喜びを爆発させた北村氏でしたが、そのわずか3カ月後に、今度は痛切な思いを吐露することになってしまいました。
「中村要先生と私」
大阪南支部員 北村 重雄
「去る9月25日、午前5時半に起床した私は、投入されたばかりの大毎朝刊に目を通した瞬間、思わず「あっ」と叫びました。「少壮天文学者、中村要氏○○す。」それは何という悲しいニュースだったでしょう。
その数日前、支部長伊達兄から先生が神経衰弱でお困りとの由を承ったので、早速お見舞い状を出しておいたのでしたが、既に花山におられなかったから、お手に入ったかどうかと思っています。私は少時、茫然自失していましたが、ようやく我に帰って同志に電話しましたら、一同皆驚くやら、嘆くばかりでした。事実私も半信半疑でしたので、とりあえずご実家へお悔やみ状を出し、只々哀悼の意を表しながら、確実なる本会よりの情報を待ちましたが、今朝「天界」11月号によりその動かすべからざる事実なるを知り、今更の如く涙新たなるを覚えます。真に先生と私との奇しき交遊を追憶して、今頃宇宙のどこかを天かけりつつあるであろう先生の御霊に呼びかけたく思います。
私が初めて先生を知ったのは、去る1929年(昭和4)末、私が本会に入会の時でした。まだその頃は、入会に会員の紹介がいった時でしたが、一人の知人もなかった私は、自分の愛読していた「趣味の天体観測」の著者である先生に突然葉書を出してご紹介をお願いしたところ、ただちにご快諾を得たのでした。
以来ずっと文通によるご指導を仰いできましたが、昨年(1931年)7月に入って、やみがたき望遠鏡への憧れと費用上のご相談を致しましたが、先生は貧しい私にいたくご同情下さいまして、ご多忙中にも拘らず、7cm鏡をお磨き下さいました。そして、9月24日私は花山を訪うて先生に初対面し、構内を案内していただき、帰りに7cmをかついで喜び勇んで真っ暗な花山道路を下ったのでした。
降って、今年初私より当支部設置の記念集会に先生のご光来をお願いして、これもまたお聞き入れ下され、去る1月7日夕、天満橋に先生を迎え、本部へご案内申し上げ、お帰りも同車してお送りしたのでした。実にこれが先生を見ることの出来た二度目にして且つ最後だったのです。
先生の死は、先生のみを唯一の光明、先導としてきた私にとって、全く致命的な打撃でした。行途遥かなる趣味の道への精進に、私は今後いかに悩みと淋しさを持つ事でしょう。世界学界の一大損失、花山の不幸は甚大です。ああ、先生よ。なぜ死んでくれました!諦めようとて諦められる事でしょうか。先生の遺著2冊を抱きしめながら、昨夜もまた感慨に耽った事でした。
かくして私にとって9月24日こそは、生涯を通じて悲喜交交の忘れえぬ思い出の日となりました。大津市外真野村の墓地に淋しく眠る中村先生よ!冥せられよ!貴下の学的名声は燦として、世界天文学史に永遠に不滅の光輝を放つ事でしょう!先生の冥福を祈りながら、生前その恩義に報い得ざりし悲運を、先生の墓前に謝す日の近い事を誓います。ああ、悲しい哉!(尚先生より頂いた都合9通のお便りは、観測帳に貼り込んで永久の記念に秘蔵いたします。)」
[1枚目写真は「天界」1932年9月号より、2枚目写真は伊達英太郎氏「天文写真帖」より(1934年、観測中の北村重雄氏と愛機7cm反射望遠鏡「ALBIREO」)]
参考文献:天界140号,東亜天文協会・天文同好会,1932.12月
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