TELESCOPE MAKING

素人に出来る 天体望遠鏡の作り方 山崎正光著

 著者の山崎正光氏(1886-1959)は、高知県佐川町出身。1905年(明治38)高知の海南中学卒業後、単身アメリカに渡りました。ルートという親切な人に雇われ、それが縁でルートの大学時代の友人であった天文学者エイトケン博士(リック天文台)に出会うことになります。エイトケン家のボーイをしながら、エイトケン博士と共に36インチ(92cm)屈折望遠鏡で写真を撮ったり、使用が許された6インチ(15cm)屈折望遠鏡で観測を行いました。

 1917年(大正6)、カリフォルニア大学天文学科に入学し、1921年(大正10)卒業時には、優等の表彰を受け、バチェラー(学士)の資格を得ています。カリフォルニアは、イギリスから伝わった反射鏡研磨が盛んな土地でしたから、そこで山崎氏は反射鏡研磨の技術を磨いたと思われます。

 山崎氏は1922年(大正11)3月に帰国します。1923年(大正12)4月には、京都帝国大学理学部宇宙物理学教室の講師になっています。その時山崎氏は37歳。数ヶ月の在勤であったためか、当時19歳の中村要氏とは接点がなかったようです。これは、大学という環境(山崎氏はアメリカ帰りの講師、中村氏は中卒の志願助手)も理由にあったのだろうと思われます。

 山崎氏はその後、1923年(大正12)12月には水沢緯度観測所の技師になり、18年間業務を忠実に果たしています。1928年(昭和3)10月28日には、自作の20cm山崎式コメットシーカーで新彗星を発見しています。Yamasaki-Forbes彗星と命名(ドノホー賞受賞)されましたが、彗星の軌道計算をしたCrommerlinに敬意を表して、その栄誉を譲っています。(現在クロムメリン周期彗星と呼ばれています。)

 3枚目写真の改定増補版はしがきでは、中村要氏に対する謝意を述べています。まっすぐな山崎氏の人柄が滲み出ているように私は思いました。

(1枚目:1926年(大正15)9月1日発行。モダンなセンスの良い表紙カバー、4枚目:表紙裏の反射鏡研磨に関するメモ。どなたかが書かれたかは不明)

参考文献:日本アマチュア天文史,日本アマチュア天文史編纂会,恒星社厚生閣,1987

     天文月報「山崎正光氏を悼む」,日本天文学会,1959年5月

中村鏡とクック25cm望遠鏡

2016年3月、1943年製の15cm反射望遠鏡を購入しました。ミラーの裏面には、「Kaname Nakamura maker」のサインがありました。この日が、日本の反射鏡研磨の名人との出会いの日となりました。GFRP反射鏡筒として現代に蘇った夭折の天才の姿を、天体写真等でご紹介します。また、同時代に生きたキラ星のような天文家達を、同時期に製造されたクック25cm望遠鏡の話題と共にお送りします。

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