「天界」No.140(故中村要氏追悼号)その4

追想 花山にて 島本一男

 「中村氏は、本当に星を愛し、本当に天文が好きだった人であります。氏の特技がレンズ磨きであったことは周知のことです。けれども、氏のレンズ磨きは、レンズの完成が目的ではなくて、これによって星を見るためだと繰り返し言われた言葉に深い感銘があります。

 氏は、自分の仕事におそろしく自信のある人でした。それは、涙ぐましいまでに努力することによって、自己の中にいささかの淋しさをも留めぬ心強さのある自信でした。氏の作られたミラーやレンズは、私の聞いた限り、一つ一つが傑作と人々から言われ、自らも「よくできたと喜んでいます。」と公言されるものでありました。本当に、字義通りに玉を磨く人であったのでしょう。

 中村氏は、何と言っても大勉強家でありました。傍から見ていても、ぐんぐん仕事をやっておられることの解る人でした。氏の場合、「星との生活」が氏の生活の大部分等というのでなく、そのまま正しく全部であったと言い得ないでしょうか。黙々と日曜の午後、地下室の工場で、レンズを磨く氏の姿。夜来の雨がいつの間にか晴れた暁の数時間にも、白い観測眼が写真板の数枚を抱えて降りて来る。そうした氏のプロフィールを見ている私には、中村氏の完結された人生が厳粛な反省を呼び起こさせ、一人の真面目な良き先輩を失った悲しみを、いやが上にも深からせます。

 氏は、遠来未知の初心者にも極めて親切な温かい人でありました。私自らがその経験を持つ者であります。恐らく氏がかかる訪問者に対する気持ちは、「友あり遠方より来たる、また楽しからずや」という論語冒頭の一句の感激そのものであったのでしょう。「星を真に愛する人」という意味が、アマチュアという外国人の言葉に成語の形を得るならば、氏こそは真に偉大なアマチュアであったでありましょう。

 ある夜、氏は自作の反射鏡を持ち出して、私のためにオメガ星雲を探し出してくれました。私がじっとこれを見つめている時、「私は気持ちのくしゃくしゃする時や、何かこう物足らぬ時、ただもうこうして彼方此方の空を眺めるのです。すると不思議に気持ちがすっとほぐれてきます。ね、これは見事な白鳥の形でしょう。」といかにも楽しそうに囁かれるのは、正しく氏の声でした。

 事務的な器械的な星の観測に永年没頭しておられる氏が、いつまでもこうした星の美しさを、知り出してまるで間のない人々の味わうような感激を残していられるのに、私は驚きの目を見張り、深く打たれたことでありました。

 中村氏は、真に星の光の中に人生の明るみを見出し、その光明の星のために人生を苦しみ通された人と言ってよかろうかと思います。今、氏を思い出の世界に視る日、一片の私情を述べて氏の追憶をする次第であります。」

(1枚目写真はクック30cm屈折望遠鏡で観測中の中村要氏)

参考文献:天界140号,東亜天文協会・天文同好会,1932.12月

     天界103号,東亜天文協会・天文同好会,1929

     星の手帖,河出書房新社,1979秋

中村鏡とクック25cm望遠鏡

2016年3月、1943年製の15cm反射望遠鏡を購入しました。ミラーの裏面には、「Kaname Nakamura maker」のサインがありました。この日が、日本の反射鏡研磨の名人との出会いの日となりました。GFRP反射鏡筒として現代に蘇った夭折の天才の姿を、天体写真等でご紹介します。また、同時代に生きたキラ星のような天文家達を、同時期に製造されたクック25cm望遠鏡の話題と共にお送りします。

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