「天界」No.140(故中村要氏追悼号)その5

古畑 正秋氏

 古畑正秋氏(1912年〜1988年)は、長野県出身の天文学者です。東京帝大理学部卒業後、ハーバード大学天文台助手となりました。帰国後、1958年に東京大学東京天文台教授となり、1968年には、東京天文台台長になりました。古畑氏は、野辺山宇宙電波観測所・木曽観測所設置に尽力されました。夜天光研究の権威でもあります。アマチュア天文家に対して積極的に関わり、変光星観測の指導をされました。

 中村さんを憶う 古畑正秋

 「何という運命の仕業であろうか!何人も夢想だにもし得なかった事が、既に厳然たる事実として時の掌中に固く隠されてしまっていて、人間の力で最早如何ともする術がない。「あの中村さんを如何なる天の意を以ってしても、この世から去らしめる事が出来るものか。未来の大きい約束と、凡ゆる天文関係者の期待を裏切る事が、如何に神なればとて出来るものか!」中村さん急死の電報を手にして私はそう否定し、憤激せざるを得なかった。ただしこの固い確信も、現実に破られたのであってみると、驚愕と、悲嘆と、残念さとが交錯して肺腑を突かれる思いである。

 天才は薄命である、余りにも惜しむべきこの定めが、終に氏をとらえてしまったのである。天才がその天分を発揮し尽くした時、その生命を奪うのが天神の掟であるのかもしれない。思えば氏の今迄の業績は天才人としての偉才を十分に発揮し尽くしている。然し然し我々は、氏に更に超天才人としての生涯を今後に於いて期待していたのである。非凡な才能と技倆とを将来に於いて、更に更に展いて貰いたかったのである。今、取り返しのつかない事とは知りながら、どうしても諦め切れぬ所以である。何とか出来なかったものかとの未練をどうしても捨てる事が出来ないのである。

 氏の学問上の天才的優秀さは今更喋々するまでもないが、私としては、科学者としての氏よりも、人としての氏の追憶を忘れ去る事が出来ない。勿論、氏に接した時日も長年月に亘ったのではない故、或いは氏の全貌を盡し得なかったかもしれないが、私の心に映じたままを少し記してみたいと思う。

 一度でも氏に接した人は、誰しもあの6尺(約180cm)の体軀に相応しい大海の如き円満且つ温和な人格の持ち主であった事を知られていると思う。文字通り温かみのある人、親しみのある人で氏はあったのである。

 私が始めて氏に会ったのは、確か中学5年生の12月であった。諏訪の三澤先生宅へ来られて、現在自分が使用している8cm赤道儀を世話された時であった。5尺(約150cm)に足りなかったその頃の私は、氏と並んで歩くと丁度肩ぐらいしかなく、大股でどんどん歩かれる氏の後を走るようにしてついて行きながら、あの温良な第一印象を焼き付けられてしまった。その後、度々花山天文台に滞在するようになって、朝晩親しく氏に接し、一方ならぬご厄介になるに及び、益々この印象を強められていった。

 丁度花山に小犬が生まれた時である。朝起きるから夜寝むまで、あの大きな全身を子供の如く喜びに満たせて、「ちび」、「ちび」と可愛がられた姿を忘れる事が出来ない。昨年の夏も、私と共に毎日欠かさず稚児が池へ泳ぎに出かけたが、その時も必ず「ちび」を泳がせる事により多く喜びを感じて居られるようであった。また、花山の南の構内に時々顔を出す子うさぎの挙動に一生懸命になるような童心の持ち主でもあった。このうさぎの事については、今年の天界6月号の観測帖にまで書かれてあるが、これを見た時私は、思わず氏の童心・聖心に微笑してしまった。この一事をもってしても、その性格の一端を伺い得ると思う。

 実に稀なる人格者である。しかも世間によくある「沈黙石の如き」型の人格者にあらずして、明るき温かき人格者であった。それだけに、誰でも心から親しめる人であった。一般に天才的の人は、幾分変人めいたところがあるものであるが、中村さんだけはそうしたところが微塵も見られない。時として意見の衝突を起こしやすい、一本気なものでありがちな学者間にあって、人に悪印象を与えるような事は全然ない。しかも、我々年少の者や氏を崇敬する一般素人に対しては、どこまでも親切であった。

 一昨年11月末であったか、私が花山を去る時、思い旅行鞄を勧められるまま棒に通して、前を中村さんに担いでいただいて、小さい私が後ろになって、山科への近道を駆け下った事があった。丁度氏も自宅へ帰られる時であったが、その時の親切さは未だに忘れる事が出来ない。 

 中村さんに直接接した方、望遠鏡について世話を受けられた方は、皆恐らくこの事を感じているであろう。偲べば偲ぶほど、天稟(天から与えられた性格)と人格とに満ちた存在であった。如何で之を惜しまざるを得べきか。」

[1枚目写真は30歳頃の古畑氏、2枚目写真は東亜天文協会東星会 総会記念写真 1942年(昭和17)3月15日 於:白十字堂 写真前列中央は野尻抱影氏(当時57歳)、写真は伊達英太郎氏天文写真帖より]

参考文献:参考文献:天界140号,東亜天文協会・天文同好会,1932.12月

     古畑正秋,Wikipedia,2020.4.11閲覧

     

中村鏡とクック25cm望遠鏡

2016年3月、1943年製の15cm反射望遠鏡を購入しました。ミラーの裏面には、「Kaname Nakamura maker」のサインがありました。この日が、日本の反射鏡研磨の名人との出会いの日となりました。GFRP反射鏡筒として現代に蘇った夭折の天才の姿を、天体写真等でご紹介します。また、同時代に生きたキラ星のような天文家達を、同時期に製造されたクック25cm望遠鏡の話題と共にお送りします。

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