観測記録、手紙、そして清澄天文台
上は、保積善太郎氏の1941年(昭和16)の火星観測の記録です。火星見取図は、残っていませんでした。
上の手紙は、1942年(昭和17)2月13日(14日?)に、保積氏から伊達氏に送られた礼状と観測記録です。
1941年(昭和16)の火星最接近は10月3日、衝は10月10日、最接近時の距離は6140万Km、視直径は22.8秒でした。戦時体制が厳しく、緊張のもと観測が続けられたようです。火星の位置はくじら座とうお座の境界付近で、地平高度は1939年より高く、シーイングなどの観測条件は1939年より勝っていました。
火星観測のベテラン、4天王の2人、渡辺(後年:佐伯)恒夫氏(スケッチ7枚)や前田静雄氏(同13枚)は、戦地から帰還したばかりでした。また、残りの2人、木辺氏(スケッチ5枚)、伊達氏(同6枚)も低調でした。そのような中、伊達氏が薫陶した保積善太郎氏が98枚、村山定男氏が96枚と、新観測者が気を吐きました。
村山定男氏は、火星観測の師として、伊達英太郎氏の名をあげています。(月刊天文,2003.11月号,地人書館,P.52)
保積氏の住所を見ると、生家が東京・深川で材木商を営んでおられたようです。若くして、当時高額だった望遠鏡を3台も所有できたのは、生家の財力が大きかったのではとも推察します。
「失われた望遠鏡」でも述べましたが、東京は幾度も大空襲を受けました。保積氏が住んでおられた深川は、1945年(昭和20)3月10日の大空襲の初弾が投下された場所です。その空襲で、深川区は焦土と化しました。保積氏ご一家が疎開等をしておられなければ、保積氏の望遠鏡も失われてしまったのではと考えます。
後日談です。「清澄天文台」をネットで検索していると、リンクのブログに出合いました。保積氏は、伊達氏への手紙に「小生も伊達先生御同様、先行10インチ(25cm)位のものを一生の想い出とし作る積りです」と書いていました。
保積氏の威風堂々たる「清澄天文台」に掲げられた「25?cm反射赤道儀室」のプレートを見て、私は思わず、胸が熱くなるのを感じました。
(参考文献)
日本アマチュア天文史,日本アマチュア天文史編纂会,恒星社厚生閣,1987
深川区,Wikipedia,閲覧日2020.7.31
(資料は全て伊達英太郎氏天文収集帖より)
2コメント
2020.08.02 12:21
2020.08.02 10:08