1939年(昭和14)の火星スケッチ(7)

 今回は、木辺成麿氏の奥様の木辺村子氏の火星スケッチをご紹介します。木辺村子氏は、ご主人の木辺成麿氏と共に、31cm反射望遠鏡を使って写真撮影も行っていました。山本一清氏が、英子夫人を積極的に観測に携わらせていたことが、木辺氏にも影響を与えたのかもしれません。

 英子夫人は、山本一清氏のアメリカ留学にも帯同し、日食観測(1923年・1929年)にも加わっています。下の新聞記事は、山本英子氏が新聞社の所有する飛行機に搭乗し、1936年(昭和11)の日食観測スケッチをすることを告げたものです。

(新聞記事は伊達英太郎氏天文蒐集帖より、資料は全て伊達英太郎氏保管)

中村鏡とクック25cm望遠鏡

2016年3月、1943年製の15cm反射望遠鏡を購入しました。ミラーの裏面には、「Kaname Nakamura maker」のサインがありました。この日が、日本の反射鏡研磨の名人との出会いの日となりました。GFRP反射鏡筒として現代に蘇った夭折の天才の姿を、天体写真等でご紹介します。また、同時代に生きたキラ星のような天文家達を、同時期に製造されたクック25cm望遠鏡の話題と共にお送りします。

2コメント

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  • double_cluster

    2021.06.27 06:56

    いつもコメントをありがとうございます。クック物語にも書かせていただきましたが、神戸は1945年(昭和20)3月と6月に大空襲を受けています。神戸港には機雷も投下され、海運業者は大変な痛手を被ったようです。萑部氏夫妻も、ご苦労が多かったのではないかと推察します。そう言えば、小槙孝二郎氏は奥様や御子息も観測に参加されていましたね。中には、人里離れた山上に天文台を構え、ご一家で移住された方もあったようです。山本一清氏のカリスマ性や指導力は、現代の我々の想像を超えているのかもしれません。
  • manami.sh

    2021.06.27 04:55

    山本一清・英子夫妻、木辺成麿・村子夫妻、萑部進・守子夫妻とも、とても充実した環境で観測されていたと思われます。機材を揃えるのも、知識を得るのも、まだまだ、大変な時代だったと思います。夫妻という形は別として、女性がOAAの会員になるにもいろいろな意味で入会は狭き門だったように感じます。 萑部守子様は、結婚後に天体観測を始められたのか、以前よりされていたのか。 萑部進様が1944年に上海に赴任された際には、守子様は同伴したのか、それとも神戸に留まっていたのか、気になっています。