東亞天文協会黄道光課通信(17) (1932年10月7日)「中村要先生追悼号」
1932年(昭和7)10月7日発行の黄道光課通信(17)には、B4用紙5枚に亘って中村要氏への追悼文が掲載されました。すでにご紹介した文もありますが、ここでは全文を掲載します。
東亞天文協会にとって、中村要氏の死去は大きな衝撃となりました。
「黄道光課通信(17) 一九三二・一〇・七
倉敷天文臺 黄道光課長
1
●中村顧問追悼――今日までに、抱影先生はじめ多くの課員諸君から御文をいただいきましたから、先づ一まとめにして御目にかけます。課の大地震であります。御見舞は課長が代理で受けます。
●花山星図について――多くの時間と労力と経費とによってつくられた花山の新黄道星図が観測者間に一般に悪評であります。誠に困ったことでありますが、あの星図は適当に何かに利用するとして、これまで使っていました倉敷星図に一定しませう。この星図は、古参の諸君はわかっていませうが、小山先生がG. Jones氏がスケッチに用いた黄道星図を本として、厳重な計算をせられ、つくられたものを、私の手で一定の黄経のものにまとめ上げたものです。技術に長けた謄写印刷の本職の手で、一定の原図により、おちついてつくってもらっています。一十枚約参円(或は以下)で出来ます。
●星図や観測用紙――各番号のものを御手許にいつも数枚あるやうにしておいて下さい。泥縄式ではいけません。星図は最も大切に、而もどしどし使用することです。御入用の星図は番号と枚数とを御知らせ下さい。
●黄道光観測用紙の改版――残部が少くなりましたから、この機会に改めるべきところを改めたいと思います。新しい項目を加えてもよろしい。廣瀬君から次のやうに、
一、中心線を特別に注意するために、
A. 中心線に於ける明るさを別に測定して、記入する欄を新設
B. 中心線が黄道に対する偏りの度数を記入する欄を新設」
「二、太陽との関係を一目たらしめるために、黒点の相対数、或は総数、その他のことを簡単にあらはす欄を新設
これ等は用紙のどこに設けるべきか、その他御気づきの点を御知らせ下さい。多くの諸君の御意見を容れてみませう。
●対日照観測の興味――私は文句をいふだけで全く見のがして来ました。坂元、下保、佐野、三君を親として、非常に進展していますところへ、米のグランヴィル先生からあの御意見(花山急報8号)で私も奮起し、方々の諸君から面白い結果をいただきつつあります。時刻は21時位でも結構。月は止むを得ませんが、薄明をおそれることなく、ゆっくりと観測出来ます。多少の街光も差支ありません。
●対日照スケッチの上下の位置――黄道光は地平線を下にしてみること勿論ですが、対日照はそのきまりがありません。整理上困難ですから、時刻や星図の文字にかかはらず、いつも東を下にして、用紙を西の方にはりつけるやうに一定しませう。
●花山急報との関係――めづらしい現象を急報係りに御知らせになることは結構です。私の方へ御知らせ下さる時には、(a)花山へも報告、(b)花山へ報告を頼む、(c)花山へ報告しない方よろし、(d)その他の御意見を必ず御附記願います。
●八月分の観測記録――九月29日に原稿を京都に送っておきました。黄道光と対日照と怪光現象とにわけました。
●九月分の観測記録――既にいただいている人もありますが、なるべく早く、おそくとも20日までに御願いします。月末までに京都に着くように原稿を送ることになっています。今後は天界の各号に諸君の御名前が掲載されるようになりたいものです。
●新しい同士の紹介――大分縣の亀井、原田両君が去られて、九州は坂元君御一人のさびしさでありましたが、新に左の通り、昨日課に加はられました。
大分縣速水郡杵築町上町三二三 渡邊恒夫君
●音信のない課員諸君へ――次号から課通信の発送を停止しますから御承知のこと」
「2
中村先生をしのぶ御文は、着順に書きましょう。但し、福井、浅野、山田三君のは、課通信(16)発送前ですが、加えてみました。
(Ⅸ-21)福井君 課通信、花山の急報等お礼申します。先日花山を河合君等と共に訪ねま
した。生憎、稲葉先生に会いましただけで、中村先生は見えませんでした。
(Ⅸ-27)浅野君 今朝突然‼全く突然、新聞紙に依って驚かされました。中村先生の訃!なんと悲しい極みではないでしょうか!!! 兄の御手紙によって、先日御病気の由は承っていましたが、あの御丈夫そうな長大なお身体に一抹の懸念すらも抱いてはいませんでした。「束も動け 吾が哭く声に 秋の風」秋方に酣(かん)ならんとする(秋真っ盛りの)頃、来る年々の悲しき思い出となるでしょう。
(Ⅸ-28)山田君 ああ我等の中村先生!!! 悲しい事ですね。何うしましょう。いつでしたかあなたから、中村先生の御不快を承りましたね。あの時は、お風でも召されたことと思っていました。まさか中村先生なくなられるとは夢にも思われないことです。石山で御会いしたのがはじめで最後でした。私はあの時、鏡に付て御尋ねしてみたいことがありましたので、お暇に御尋ねしようと思って居るうち、ついつい時を失いました。今日では、何故あの時思い切って御尋ねしてみなかったのだろうかと思います。
(Ⅸ-30)浅野君 私が先生にお訓を頂いたのは一九二六年頃のことです。総て反射鏡に関することばかりで、ポピュラー・アストロノミー誌に載っている米のポーターの製作記事を、縮写したものを頂いたのもその頃のことです。ポーターの記事がちょいちょい不備なのを丁寧にその個所を指摘して、裏面に添書がしてありました。ポーターは硝子材の厚さ口径の1/8としているのを、先生はlower limitで1/6が安全だと書いていられたことなど今もよく記憶しております。多分、お手紙を頂いたのは五、六度位だったと思っていますが、それ以後今日までは遂に直接お訓を頂く機会を得ませんでしたが、天界誌上、その他では、諸兄と同様多大のお訓、特に私共の最も希求した観測」
「の実際方面に関しては、殆んどその知識を先生に負うていると申しても過言ではないでしょう。一九二二年頃の遊星観測や変光星観測等は最も熱心に読みました。一九二三年頃の小望遠鏡に関する御文はどれ程私共を益したことでしょう。それ以後の反射鏡に関する先生の御研究はここに喋々する迄もありますまい。その頃の天界の表紙が如何によくいたんでいるかに依ってもその価値の一端がうかがはれます。最後に私にとって忘れ得ない出来事があります。それは――研磨を初めて休み休みではあるが四、五年来になる十五センチ鏡が先生の死の前夜に漸く完成したことです。その夜はピッチが軟いため、いくら短運動をつづけても双曲線の度を減少することが出来ない。遂に最後の方法としてピッチの切取りをやり、漸く目的を達することが出来たのでした。先生の反射鏡の御研究が如何に御苦心の結果になるかを、今更に感じた私が、実にその翌朝先生の訃に接しようとは!!
私のその時の驚きは――後頭を何者かに打ちのめされた様な心地がしました。
実に「惜しみて余りある人」を失いました。やがては東洋のカルバー或はそれ以上とまでなられるであろう先生の死は人類の不幸と申さねばなりますまい。
(Ⅸ-30)原田君 中村さんの死を聞いて驚きました。何といっていいかわかりません。私が花山へ三度も行ったのは中村さんに会いたかった為だったのです。中村さんは私を何とお思いになられて居たか知れませんが、私は中村さんを大先生と思っているのです。中村さんの死は日本、いや世界天文学会の大損失でしょう。中村さんに対する感想はつきません。今日という今日、試験の近づいたのも何もかもわすれてしまいました。
(Ⅸ-30)窪田君 我黄道課の、天文同好会の、日本天文学界の中村先生の御死去を新聞紙上及び本日の課通信の確報にて承知し、心から哀悼の意を表しています。天文同好会員の私にして先生の御顔を排する事の機会を得なかったのを遺憾に思っています。本」
「3
日の通信を拝見して今更乍ら先生の奮闘の生涯を想像して、感動せしめられると共に斯界(しかい)のため非常に惜しんでいます。
(Ⅹ-1)木邊君 中村氏急逝には一方ならず小生も驚き入りました。私は一度ならず二度ならず、中村氏のお世話になり、天文の知識も全くあの方というてもよい位です。昭和二年から五ケ年ばかりに及んで居ります鏡面製作などは、実際御世話になって居ります。又あの人の鏡面製作等は随分見ていただけに、哀愁の感が深いです。
(Ⅹ-2)佐藤君 中村氏の御死去、本当になんという意外なことでしょう。唯々意外さに茫然としています。あの堂々たる体躯のどこに、一体病魔がひそんでいたのでしょう。誌上でも屢々(しばしば)巨人々々として紹介されたり、それに一度はお会いしたことのある私には全く信ぜられない心持です。あの熱心から夜を徹しての御研究に体をそこなはれたのでしょう。これからはあの興味ある観測報告や望遠鏡記事等見ることが出来ないと思うと淋しい気がいたします。思えば氏の御功績は偉大です。少なくとも外観的には氏が日本の天文界を背負っておられた観があります。学界の不幸はいはずもがなです。山本先生の御悲歎もさこそと想像されます。全く惜しい助手を失われたものです。
私が氏にお会いしたのは昭和四年の三月、私が中学四年の時です。氏がスマトラの皆既蝕観測に出発される一日か二日前のことで、無考にものこのこと大学天文台を訪れた私を、御多忙中にもかかわらず親切に台内隈なく案内して下さいました。研磨室及びその操作の実際に至るまで詳しく御説明下さいましたことは今なお深く脳裏に止めているようです。全く惜しいことです。
(Ⅹ-2)塩見君 課通信(16)を受取って事の意外さに驚いています。一ケ月以上も中村様から指導を受けて、尚今後もと思っていた僕にとっては、電光に感じた気持にも似たものが背筋を流れました。
中村様の名を始めて知ったのが、ちょうど5年前の時季も今頃でした。秋日を身にあびな」
「がら”反射望遠鏡の製作法”(当時科学画報に載せられていたもの)を横手に置いて反射鏡を作り始めました。結局駄目で、中村様製作の7.5cm鏡を買い求めましたが、直接の動機となって天文に首を入れるようになり始めました。その後一九三〇αシワスマン・ワグマン彗星による流星雨のさわぎから流星観測に手を染め、休暇前、幸いにも中村鏡を手に入れ、つづいて志願助手となって、花山天文台で一ケ月を送ることになりました。台員で最初に御会いしたのが中村様、滞在中の御世話も中村様、山本先生よりは中村様に多大の御世話をかけました。
僕が花山に行ったのは朝のことで、原田君はその夜流星観測をしている時に、山へ上って来ました。一夜を明かしてその翌日、花山の会議室で、流星会議が開かれました。出席者は山本先生、中村様、小槇流星課長、高木助手、原田君、僕という臨時即製会議でした。中心は中村、小槇両氏で、主に議題は中村様から御出しになりましたが、頭に残っているものは余りありません。佐々木様から聞いた黄道光会議の様子は、その時の様子と余りにも似ているので驚いた位です。
数日間は小槇様と一緒に観測して、種々欠点を教えて頂き、中村様は微光流星について観測法、観測上の注意なども深い経験にもとづき教示下さいましたし、観測もcheckし合いました。その時中村様所有の2吋のFinderで流星観測をなし、微光流星観測に小望遠鏡を使用することが非常に効果あることを知りました。
微光流星を観測するために良い望遠鏡を持ちたいという考がそれから起り、来春高校をpassした時の記念として買ってやろうという所まで来て、中村様にも御願いしましたが、それが達せられない先に死去されたことは残念でたまりません。それに、微光流星に関しては未だ残された問題が多々あるのに、その問題を解くkeyを御持ちになる中村」
(参考文献)
黄道光課通信(17),荒木健児,倉敷天文台,1932年10月7日
(資料は伊達英太郎天文蒐集帖3より)
0コメント