石岡繁雄氏(1)

 この望遠鏡は、1941年(昭和16)に愛知県佐織町の石岡(旧姓若山)繁雄氏が製作完成させた13cm(焦点距離114cm)反射赤道儀です。観測をしているのは、石岡氏の弟の若山英太(つねた、若山家四男)氏です。若山家は、男子ばかりの五人兄弟で、繁雄氏は長男でした。

 石岡繁雄氏が望遠鏡製作を決意してから5年、兄弟の力を結集し、ミラーから観測小屋まで全てを手作りしました。

 この写真が撮影された時は、石岡繁雄氏は既に海軍に入隊(1942年10月1日出征、技術中尉)していました。

 テッサー6cmで撮影された、しし座の星野写真です。

 かみのけ座とりょうけん座の星野写真です。

 当時の佐織町の空の暗さがよく分かります。

 左下は、ぎょしゃ座の天の川です。

 左上は1941年(昭和16)11月2日の火星食、下2枚は1941年(昭和16)9月6日の部分月食です。

 石岡繁雄氏(1918~2006)は、名古屋帝大工学部を卒業した応用物理学者であると共に、登山家としても著名な方です。山仲間からは、バッカスの愛称で慕われていました。三重県鈴鹿市の岩稜会の会長をつとめ、1947年(昭和22)に、穂高・屏風岩の中央カンテ初登攀に成功しています。

 1955年(昭和30)1月、石岡繁雄氏の末弟の若山五朗氏(享年19、若山家五男)が、前穂高岳東壁を登攀中に、ナイロンザイルの切断により墜死しました。この事件は、「氷壁」(井上靖,新潮社,1963)の題材になりました。

 その後、ナイロンザイルの岩角での脆弱性を自ら検証し、安全学や山岳教育を通して多くの人材を育てたのが石岡繁雄氏でした。

 

 若山富夫氏は、若山家の三男です。繁雄氏が石岡家を継いだ後、若山家の家督を継がれました。富夫氏も、13cm反射赤道儀による観測や撮影をしました。

 石岡繁雄氏と兄弟たちの努力の結晶であった13cmフォーク式反射赤道儀は、アメリカ軍の戦闘機を撮影したことから、1945年(昭和20)1月軍に接収され、二度と戻ってこなかったそうです。

(参考文献)

石岡繁雄,Wikipedia,2023/5/3閲覧

第 28 回名古屋大学博物館企画展記録 「氷壁」を越えて─ナイロンザイル事件と石岡繁雄の生涯─,西田佐知子・堀田慎一郎・松下佐知子,名古屋大学博物館報告 No. 29, 67–76,2013

「氷壁」ナイロンザイルの科学的調査によって明らかになった59年前の真実,長田敏,製品安全センター

HP「石岡繁雄の志を伝える会」

(写真は伊達英太郎氏天文写真帖より)

*かみのけ座とりょうけん座の星野写真への書き込みについてと、石岡五朗氏の享年について、石岡繁雄氏のご二女 石岡あづみ様からご教示をいただきました。


中村鏡とクック25cm望遠鏡

2016年3月、1943年製の15cm反射望遠鏡を購入しました。ミラーの裏面には、「Kaname Nakamura maker」のサインがありました。この日が、日本の反射鏡研磨の名人との出会いの日となりました。GFRP反射鏡筒として現代に蘇った夭折の天才の姿を、天体写真等でご紹介します。また、同時代に生きたキラ星のような天文家達を、同時期に製造されたクック25cm望遠鏡の話題と共にお送りします。

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