創設間もない頃の花山天文台

清水真一氏撮影の動画フィルムより

 清水真一氏は、パティ―ベビー9.5㎜映写機による動画をたくさん残しています。その中から、1929年の秋に撮影された、京都帝大花山(かざん)天文台(創設1929年10月)の様子(動画を切り取ったもの)をご紹介します。清水氏が撮影したのは、花山天文台創設間もない1929年の秋頃です。なお、掲載を清水真一翁顕彰会様が快諾してくださいました。心より感謝いたします。

大ドームと子午線館(手前)

大ドーム外観(クック30cm屈折望遠鏡が設置されている)

回転しつつある大ドーム

この人物は中村要氏と思われます。

小ドーム(ザ-トリウス18cm屈折望遠鏡が設置されている)

 操作をしているのは山本一清氏と思われます。

出典 清水真一翁顕彰会HP「昭和初期の映像動画秋の旅続編」より

中村鏡とクック25cm望遠鏡

2016年3月、1968年製の15cm反射望遠鏡を購入しました。ミラーの裏面には、「Kaname Nakamura maker」のサインがありました。この日が、日本の反射鏡研磨の名人との出会いの日となりました。FRP反射鏡筒として現代に蘇った夭折の天才の姿を、天体写真等でご紹介します。また、同時代に生きたキラ星のような天文家達を、同時期に製造されたクック25cm望遠鏡の話題と共にお送りします。

2コメント

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  • double_cluster

    2026.03.29 09:08

    @manami.shmanami.shさま 投稿をお読み下さりありがとうございまいした。また、詳細なコメントをありがとうございます。上海自然科学研究所について調べた際、上海事変の大変さを知ることができました。海運業界は戦争の影響をもろに受け、激動の日々であったと思います。神戸もそうでした。私の手元にある天界を見ると、進氏は1939年2月号(第19巻第214号)から東亞天文協会の副会長として記載されていますね。大阪郊外ですが、大学で池田に通っていた感覚から、十三(じゅうそう)より北になるとそうなるように思います。大阪の方と感覚が違うかもしれませんが。
  • manami.sh

    2026.03.29 02:16

    「天文同好会の天文普及活動」、楽しく読ませて頂きました。萑部守子さんは私のなかで、依然としてベールに秘められた方なんです。それはそれとして、なぜ萑部進氏は、戦後に佐々部姓に改姓したのか。この改姓が萑部夫妻の戦後の足取りがつかめなかった原因であることは明白ですねぇ。佐々部守子さん(1898-?)については、明治31年に吉本幾太郎(医師:島根県松江市)の二女として生れ、大正3年3月に島根県立松江高等女学校を卒業していることがわかっています。松江高等女学校は修学期間4年で、生徒のは地域の名家の令嬢達でした。佐々部進氏(1892.3.19-1954.11.18在職中に逝去:島根県松江市生)との婚姻は氏が大正5年3月に東京高商を卒業し三井物産(株)船舶部に入社した後と考えていいかと思います。第一子が大正10年生れなので、結婚は大正5~10年のあいだでしょう。氏は大正8年以降、昭和2年に船舶部本店(神戸)に転任してくる迄は米国・英国で派出員として勤務しています。山本一清氏と佐々部進氏との出会いは大正11年の海外留学時かも知れません。(佐々部守子さんも帯同?) 山本英子さんは明治28年生、高等女学校卒。佐々部夫妻の名前が「天界」に出てくるのは、わずかな期間(1937-1941)にすぎません。社内人事で佐々部進氏は三井物産(株)船舶部から傘下の大洋興業汽船に、更に上海信用倉庫(中国上海)に異動しています。戦後、氏は上海から帰国し極洋捕鯨、更に太平洋海運(極洋捕鯨から分離)に勤務し海運事業史に名前を刻んでおり、それは周知事実でした。佐々部守子さんが、上海に帯同したのかは不詳ですが、戦後落ち着いてからの夫妻は東京都新宿区に住まわれていました。進氏の没後、佐々部守子さんは太平洋海運の株主として、1961年には佐々部海運が設立され役員として名前が記されていました。なお、没年は不詳。ふと思ったのですが、伊達氏の大阪郊外云々ですが、感覚的にどの辺までが大阪郊外ののでしょうか。伊達氏の残してくれた資料は、「天界」記事の裏側を見せてくれましたが、その先には、私は限界を感じています。