2018.06.12 09:52下保 茂氏 下保茂氏(かほ しげる、1909-1981)は、北海道出身の天文学者です。家庭の事情で中学を中退しましたが、優れたアマチュア観測者として、1935年(昭和10)神田茂氏に望まれ東京天文台に臨時雇いとして入りました。1936年(昭和11)7月17日、”Kaho-Kozik-Lis”彗星を発見。1937年(昭和12)雇い、1941年(昭和16)技手、1963年(昭和38)東京大学講師となり1969年(昭和44)退官しました。主として変光星の観測に従事し、堂平観測所の91cm反射望遠鏡による写真から、多数の超新星の光度測定などを行いました。(「現代天文学講座別巻 天文学人名辞典」、中山茂編、恒星社P.259-260より) 志願助手として花山天文台に入った中...
2018.06.10 02:15野尻抱影氏(1) 野尻抱影氏(1885-1977、英文学者・随筆家・天文民俗学者・冥王星の和訳命名者、作家大佛次郎氏の兄、ウィキペディアより)も、中村要氏の逝去に伴い、追悼文を寄せています。黄道光課通信(17)1932.10.7その1倉敷天文台 黄道光課長 荒木健児「中村顧問追悼ーーー今日までに、抱影先生はじめ、多くの課員諸君から御文をいただきましたから、先ずひとまとめにして御目にかけます。課の大地震であります。お見舞いは課長が代理で受けます。 野尻抱影先生ーーー中村要氏ご逝去のご報には全く驚き入りました。日本天文学界の一角が、けし飛んだと言う印象を抑えることが出来ませんでした。学理の方面ではこれからも学者が輩出するか知れませんが、氏の如き技術家は滅多に得られるものと...
2018.06.09 05:59黄道光課通信 天文同好会では、早い時期から黄道光の観測を行っていました。黄道光課が設けられ、荒木健児氏(倉敷天文台、1902-1980)が稲葉氏の後に課長となりました。中村要氏も、顧問の一人として迎えられています。荒木氏は、課長となった翌年に、中村要氏の訃報に接したことになります。以下は、黄道光課通信(16)に荒木氏が寄せた文章です。「黄道光課通信」(16)1932.9.28 倉敷天文台 荒木 健児 哀悼 中村顧問 我らの黄道光課顧問中村要先生は、去る24日突如として死去された。25日の大阪の新聞の報道によって驚かされた私は、今や言うべき言葉を知らない。静かに近い過去を顧みると、むやみと涙を誘うものがある。実に最大の悲しさである。 私は2...