2022.02.26 07:14伊達英太郎氏(3)「火星観測の想い出 村山定男伊達英太郎先生のこと 伊達さんは大阪の履き物で著名なてんぐ履物舗という老舗のご長男で、お住まいにも身なりにも豪商の風格が漂っていたが、さぞかし厳しく育てられて成人されたのであろう。小柄なほっそりした方で、結核を患われながら熱心に星を見続けられた。「医者に止められているのに観測をした罰でまた少し発熱しています・・・」などというお便りを再々いただいては心配したものである。 私が直接お目にかかったのは、たまたま私が属していた教室の戦時研究で温泉水から希元素を採取するため、疎開もかねて兵庫県の有馬温泉に滞在するようになった頃であった。 伊達さんは阪急電鉄の宝塚の少し手前にある雲雀ヶ丘の別邸に住んでおられ、その庭前に当時我々の憧れの的...
2022.02.24 12:12下弦 2022.2.24、月齢22.1(下弦)の月です。 朝起きると、すぐに空を見ます。下弦前後の月がポッカリ空に浮かんでいると、「ヤッター」と思わず心の中で叫んでしまいます。本当に綺麗な眺めです。 上弦の月を見慣れた目には、下弦の月は新鮮に写ります。アルプス・アペニン両山脈の山頂が連なる直線的な地形。月面南部(下)の巨大クレーター群。それに引き換え、西部の暗い海の広がり。なんとも対照的な眺めです。
2022.02.23 05:47伊達英太郎氏(2) 伊達英太郎氏(1912-1953)の晩年?の写真だと思われます。伊達氏が遺された膨大な資料を見る度に、几帳面な立派なお人柄が偲ばれます。 季刊「星の手帖」1986年夏号、『特集:惑星観測』の中に伊達英太郎氏についての詳細な文章を見つけました。著者は、村山定男氏(1924-2013、天文博物館五島プラネタリウム館長、国立科学博物館理化学研究部長)です。(季刊 星の手帖,阿部昭,星の手帖社,1986.8.1,P44-46より抜粋。)「火星観測の想い出 村山定男 伊達英太郎先生のこと 1939年の大接近が終わると、東亞天文協会機関紙「天界」に遊星面課長伊達英太郎氏によって詳細な「火星協同観測結果報告」が発表された。(1940年2月〜6月) 東亞天文協会(現...
2022.02.21 12:00月が赤道通過 2022.2.20、月齢18.6の月です。この日、4:21に月が天の赤道を通過し、南半球に移りました。この写真は6:53に撮影しました。青空での撮影になりましたので、明らかにコントラストが落ちています。(白黒写真にしています)
2022.02.15 11:49月齢13.1 2022.2.14、バレンタインデーの月齢13.1の月です。 今までは、満月近い月は見向きもしませんでした。しかし、地名をガイドブックで調べると、見ものがたくさんあることに気付きました。 ティコをはじめとする若い(それでも数億年)クレーターの光条、海のさまざまな形、そしてDMD(暗い降下堆積物)の存在などなど。 月は知っているようで、知らないことばかりです。
2022.02.12 08:21月齢10.2(中村鏡) 2022.2.11、この日は月の距離が最遠(1.053、40万4897Km、視直径29.5')でした。これは、いつものようにキャノンSX720HSで撮影した月です。 この日は仕事が休みでしたので、IOptron AZマウントproに15cm反射(中村要鏡)を載せて月を撮影しました。撮影は、お手軽撮影セット(キャノンpower shot S95+セレストロンズーム8-24mm)を使いました。下の4枚の写真は、中村要鏡によるものです。
2022.02.11 08:09草場 修氏(1) 長い間心に引っかかっていた、草場修氏のことを取り上げたいと思います。内容を膨らませてから掲載したいと思っていましたが、天文古玩さんがご自身のブログに、草場修氏についての詳細をお書きになっていますので、そちらをご覧いただくのが最善だと思い今回ご紹介することにしました。 草場修氏(1898?-1948)は、大阪で昼間は日雇い労働、そして仕事を終えると図書館に通い、5年かけて独力で星図を完成させた方です。その業績を山本一清氏が認め、花山天文台に招き入れました。上の写真は、1936年(昭和11)、満願寺・最明寺滝ハイキングで撮られた写真です。左端が草場修氏、右から2人目が伊達英太郎氏です。
2022.02.10 12:27月齢9.1 2022.2.10、月齢9.1の月です。2.13に月が最北を通りますので、月の位置が天頂付近になっています。 この月齢は、南端(下)にクラビウスが全て見えていたり、ティコが夜明けを迎えたりと、とても美しい時と思います。