2021.05.31 01:58春の銀河まつり 2021.5.30、梅雨の最中でしたが、安定した好天になりました。長い間行っていなかった遠征観望に行ってきました。下調べも不十分でしたので、お気楽観望です。観望地は、兵庫県上郡郡の兵庫県立大学附属中・高のすぐ東にある展望台です。
2021.05.29 09:50皆既月食ライブ配信 2021.5.26は皆既月食(スーパームーン)でした。コロナ禍のために、各地の天文台や科学館では、YouTubeを使ったライブ配信が行われました。バンドー神戸青少年科学館でも、当日19:30~20:30にかけて、ライブ配信が行われました。 幸いなことに、私はスタッフの皆様と共に、ライブ配信に携わることができました。特にライブ配信機器担当の方は、ゴールデンウィークの頃から、綿密に準備を重ねられたそうです。当日はあいにくの曇り空でしたが、努力の成果で素敵なライブ配信になりました。スタッフの皆様に、敬服の念を強く抱きました。
2021.05.23 01:241939年(昭和14)の火星スケッチ(1) 1937年(昭和12)に始まった日中戦争が続く中、1939年には、第二次世界大戦が始まりました。いよいよ時代は困難さを増していきます。 東亞天文協会遊星面課火星観測陣にとって、1935年に共同観測を開始してから、初めて迎える火星大接近でした。この時の接近は、最接近が7月28日(衝は7月23日)、距離5799万Km、視直径24.1秒でした。しかし、火星の赤緯が-26°あまり、南天低いやぎ座の中にあったので、シーイングの点では不利でした。 共同観測の参加者は27名、若い観測者も進出し、戦時中でしたが盛況でした。 1回目は、坂上務氏です。
2021.05.23 00:57大雨のち夕焼け 2021.5.21、深夜から大雨が降り続き、大雨警報が発令されていました。その雨も夕方になり、ようやくやみました。ふと外を見ると、光が異様に広がっていました。慌てて撮ったのがこの雲たちです。雲の高さ、厚さにより色が微妙に違います。超新星爆発を起こしたカニ星雲や、新しく星が産み出されるワシ星雲のように、私には見えました。 この空の様子も、5分ほどで終わりました。 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の「一分後れました。夕焼け少し駄目となりました。なんぼ気の毒。」を思い出しました。
2021.05.23 00:34木辺成麿氏(5) ダイニックアストロパーク天究館館長杉江様から、以前、当サイトの木辺成麿氏の写真についてお問い合わせがありました。法衣姿の木辺氏の写真についてでした。最初は、伊達英太郎氏が撮影されたのではないかとお答えしました。しかし、天文写真帖を詳しく調べるうちに、恐らく木辺氏の身近な方が撮影されたのではないかという結果に落ち着きました。 後日、毎日新聞滋賀県版に掲載された、木辺氏についての記事を送っていただきました。お役に立てて、本当に良かったです。(参考文献)木辺成麿氏の愛用の望遠鏡,毎日新聞滋賀県版,2021.5.17
2021.05.16 06:091938年(昭和13)の惑星スケッチ(2) 今回ご紹介するのは、坂上務(さかのうえつとむ、1921-2018)氏です。 坂上氏は鹿児島県出身。九大教授(農学部、後に名誉教授)、東亜天文学会会長、せんだい宇宙館名誉館長などを歴任されました。気象学と天文学の境界領域を研究され、「星空を楽しむための気象学」「暦と星座のはじまり」等の著書を残されました。1941年(昭和16)9月21日の台湾富貴角の皆既日食に、最年少のアマチュア天文家として、山本一清氏らと共に参加しました。
2021.05.15 01:011938年(昭和13)の惑星スケッチ(1) 1938年の惑星スケッチ1回目は、中野繁氏(1918-2011)です。中野氏は、当時東京慈恵医大の学生でした。後年、「星雲星団の観測」「月面とその観測」「四季の天体観測」「全天恒星図」「標準星図」といった著作を残されたことでも有名です。
2021.05.09 03:131937年(昭和12)の火星・金星スケッチ(4) 1937年分として保存されていたスケッチの最後となります。1937年は日中戦争が始まった年です。1945年の終戦に至るまで、戦時色がどんどん濃くなっていきます。そのような時代でも観測を続けられた、アマチュア天文家に敬意を表します。 初めは小林義生氏の火星スケッチです。
2021.05.08 08:041937年(昭和12)の火星スケッチ(3) 今回は、青木章氏、中村文造氏、津久井修氏の火星スケッチをお送りします。青木氏は、1942年(昭和17)に東亞天文協会遊星面課水・金星班班長になっています。
2021.05.05 04:361937年(昭和12)の火星スケッチ(2) 1937年の火星スケッチ2回目は、前田治久氏(後に静雄に改名、1914-1952)です。1936年(昭和11)6月30日に発行された、東亞天文協会観測部遊星面課「回報」第壱号の、前田治久氏の紹介記事から始めます。 「前田治久氏・・・昨年(1935年)の火星接近に凄い所を見せられ、10cmの威力を十二分に発揮された。将来は火星を専攻されると言うから、差し詰め、日本のピケリングと言う処。本年中に20cm反射を完成され、1937年度の火星接近に備えられる筈である。他の天体は観測する気がせぬそうだから、徹底的な火星狂である。」 前田氏の機材等についての記述はありません。
2021.05.04 01:031937年(昭和12)の火星スケッチ(1) 1937年は、火星の最接近が5月28日(衝は5月19日)、距離7610万Km、視直径18.4秒でした。観測陣は充実し、渡辺恒夫氏は花山天文台の30.6cmクック屈折と15.5cm反射、前田治久氏は20.8cm反射(400倍によるパステルスケッチ)、伊達英太郎氏は26cm木辺鏡、木辺氏は31.8cm自作反射という、アマチュアとしては国際水準でも引けを取らないものでした。戦前の一番充実した、火星観測の年となりました。 1回目は、渡辺恒夫氏(当時花山天文台員)による火星スケッチ(ハガキ)です。なお、消印が不明瞭なため、掲載順が違っている恐れがあります。どうぞ、ご了承ください。
2021.05.03 02:461936年(昭和11)の土星スケッチ 1936年は火星接近の前年にあたり、残されていたのは土星スケッチのみです。今回ご紹介するのは、安武研二氏・伊達英太郎氏・小沢喜一氏の土星スケッチです。 最初は、安武研二氏の土星スケッチです。